慧光(えこう) (各タイトルをクリックすると詳細ページが表示されます)

「慧光」は、東京都羽村市の臨済宗のお寺(一峰院、禅福寺、禅林寺、宗禅寺)で設立された「羽村臨済会」の季刊誌です。

第146号 平成29年 秋彼岸号

慧光146号

今年の夏をふりかえる
宗禅寺 高井正俊
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺住職 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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今年の夏をふりかえる

気候変動の激しかった夏、16日間連続の雨、その中で8月5日には、羽村とうろう流しの第三十五回が、禅福寺田島和尚のもと、挙行されました。

個人的に私にとって、今年の夏は特別のものとなりました。7月5日から9日間のイスラエル巡礼、8月6日の長野松本の浅間温泉、新宮字さんの第二十回目開催の原爆忌への表敬訪問。5月27日に宗禅寺の住職を和正和尚に譲ったので、責任を若和尚に託してできたことです。

イスラエルに行ったのは、鎌倉のカトリック雪の下教会の山口神父さんからのお誘いによります。鎌倉では宗教者会議といって、神道・仏教・キリスト教の三者が3・11の追悼復興法要、各宗教の勉強会、交流の集いを行っています。交流から、キリスト教のミサやイエスキリストそのものを現地イスラエルで体験し、この目で確かめたくなりました。

テルアビブから若いキリストが伝道布教に励んだガリラヤ湖周辺、山上の垂訓教会(狭き門より入れ、求めよされば与えられんの教会)やパンと魚の教会、ユダヤ教の会堂跡をみて、カナやナザレの受胎告知教会、死海の浮遊体験、マサダ、クムラン、そしてエルサレムのキリストが十字架を背負って歩いた道、ヴェルツヘムの生誕教会等を巡礼してきました。

キリスト教とイスラム教は共にユダヤ教の中から生まれています。ユダヤ民族・アラブ民族・ゲルマン民族など、宗教と民族の混淆を見せてもらいました。緊張の中の平和、何かあると暴力事件が起きそうです。ただ観光客が直接被害をうけることはなさそうでした。

神宮寺さんの原爆忌は以前から行きたかった所で、やっと行くことができました。丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」15部作から「幽霊」と「灯篭流し」が、「沖縄戦の図」から米軍が初めて上陸した読谷村の「残波大獅子太鼓」の計三作品が本堂に展示され、その中で金城実さんと高橋住職の対談を間近に見聞しました。特に、沖縄が受けた地上戦のことが心にのこりました。兵隊だけでなく、沖縄の住民が否応なく戦に巻き込まれ、悲惨な体験をさせられました。この事は、沖縄の人にしか解らないものです。本土や内地にいる人達の戦争体験とは比べようもないものです。沖縄が受けたこの事実を、私たちはしかと見つめなければいけないでしょう。

イスラエルのユダヤ教、イスラム教、キリスト教、そして民族の対立。この中からだからこそ、平和が切実に求められるのだろうと思います。日本の場合は、終戦記念日・原爆・沖縄から平和への意識が求められます。

 この地には「横田基地」もあります。北朝鮮とアメリカとの対立もますます激しくなってきています。

 戦後72年、日本は与えられた平和のおかげで発展し、豊かな生活を送ることができました。今こそ、地上戦の苦しみをしっかり受け止めるからこそ、平和の有り難さと維持が必要になってきます。与えられた平和を保つために何をしなければいけないのでしょうか?

(宗禅寺 高井正俊)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その9

辱(かたじけ)なくも此の法(のり)を一たび耳にふるる時
讃嘆随喜(さんたんずいき)する人は福を得(う)ること限りなし
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

◆意訳
有り難いことにこの教えを一度でも耳に触れる機会をいただき深く信じて受け入れられる人は必ず幸福を得ることでしょう

純一無難の心
「じゅんいつむざつ」あるいは「じゅんいつむぞう」と読みます。雑味がなく純粋一途な心の姿を表している言葉です。私が三島瀧澤寺でおせわになった亡き死活庵中川球童老師が、入門当初の私に口を酸っぱくして言い聞かせて下さった言葉でもあります。「ええかい、修行の第一歩は純一無雑からじゃぜ。先輩から言われたら、はい!と、返事して、余計なことを考えずに言われた通りにやるんじゃ」。聞かされていた当初は、そんなに何遍もおっしゃらなくてもと思っていましたが、日々を過ごすうちに老師の言葉の重みを感じるようになりました。

人生の出会い
我々の日々の生活の中には必ず出会いがあります。皆様が自分の人生を振り返ってみても、「この出会いが私の人生を変えた」と思えるものが必ずあるものではないでしょうか。そして、その出会いは人間同士の出会いばかりではないように思います。白隠禅師にとっては一枚の地獄絵図がそうであったように、絵画や音楽、一冊の本、普段何とも思ってなかった両親や友人の何気ない一言や非日常的な場所での体験など、その出会いは人によって様々だと思います。もしかすると、我々は自分の人生を変えるようなものに出会っていながら、それに気づいていない場合もあるのではないでしょうか。

私は親戚でもある、市内の禅林寺様からのご縁で宗禅寺にやってきました。初めて禅林寺様にお会いしたのは、母方の祖母の葬儀式でのことだったように記憶しております。そのときは私も中学生でしたので、普段あまりお会いしない親戚の方という認識しかありませんでした。まさか、このような深い関りを持つことになるとは思ってもいませんでした。出会いとは分からないものです。

人生は一瞬で変わる
白隠禅師は一たび耳にふるる時、つまり我々が初めて出会った時に讃嘆随喜できる心の状態でいるのかどうかを我々に説いて下さっているように思います。日頃から自分の心を常に純一無雑にしていれば、つまらない観念に縛られることなく、素晴らしい人生が待っていることを伝えて下さっているような気が致します。

(宗禅寺 住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第六話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。

「野ざらし紀行」続き
芭蕉はその生涯において多くの紀行文(旅に出てその土地の文化や風習などを紹介する文)を残していますが、その最初となるのが、この「野ざらし紀行」でした。旅立つにあたり禅的悟りを得んと覚悟し、実際この旅館で芭蕉の作風が徐々にかわっていき、のちに「蕉風」と呼ばれることになる自らのスタイルを確立させたという事。また「物我一致」という境涯を得て、それが作風の変化に大きく寄与したと前回述べました。「物我一致」とは「物(自分以外のもの、つまり対象)と「我」を分けない、つまり「無分別」の境涯をいいます。無分別とは自分の無い状態、つまり無我の境地でそこに物だけが残る、自らが物になりきる。これが「物我一致」の境涯です。

海暮れて 鴨の声 ほのかに白し
これは尾張(現代の愛知県東部)の海を見て詠んだ句です。五・七・五が俳句の定型ですが、これは五・五・七と破調となっています。定型通りとすれば「海暮れてほのかに白し鴨の声」となり、これでも良い句といえそうですが、これでは白いのは鴨の声となってしまいます。実際そう解釈する向きもあります。詩人的表現によって鴨の声を視覚化したものとする解釈です。しかしそれではあえて破調にする理由が無くなってしまいます。「海暮れて」と入り、すぐに「鴨の声」とくる事によって聞き手はクーックーッという鴨の鳴き声を思い浮かべます(鴨の姿では無い)。さらにそこで「ほのかに白し」と来る事で聞き手はうすぼんやりとした白い色を脳裏に浮かべます。この順で詠む事により、うすぼんやりとした霞の中からクーックーッという鴨の声が聞こえて来る情景を表現したと考えるべきかと思います。そう考えた時に上の句の「海暮れて」は状況説明的なもので分別的になりますが、「鴨の声」はまさに「鴨の声」でしかなく、「ほのかに白し」もまさにそれだけになります。芭蕉自身クーックーッ、という声になり、また白になりきった無分別の境涯を詠んだものと思います。先に著した「海暮れてほのかに白し鴨の声」では分別から離れられず、その状況にいる芭蕉自体を想像させられますが、その違いにこそ、芭蕉がこの旅で得た「物我一致(一智)の境涯を感じます。
以下次号
(一峰 義紹)

禅寺雑記帳

◆早くも秋のお彼岸となりました。二ヶ月表示のカレンダーは、あと一回しかめくることが出来ません。終わりよければすべて良し、2017年は良い年だったと振り返られるように、残りの日々を大事に過ごして行きましょう。

◆今年の夏は本当に異常気象で、日本でも世界でも記録的な豪雨による甚大な被害が多発
しました。被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。

◆八月の東京都心は日照時間が史上最短だったとの事。雨が降らなかった日が4日しかなく、農作物への悪影響や、レジャーなどで期待された消費が見込めなかったなどの被害も相当だと思います。夏は夏らしく、適度に暑くあって欲しいとつくづく感じました。このお彼岸は穏やかな、良い秋でありますように。

◆とはいっても、豪雨や地震といった天災は人間の力ではどうしようもなく、仕方がないとあきらめるしかりません。しかし人の頭越しにミサイルを打って来る独裁者による人災は勘弁してほしいものです。ミサイルの実験が上手くいくは限らず、途中で落下する可能性もありますし、飛行機や漁船にぶつかる事も考えられます。何があっても責任を取るつもりも反省の言葉も無いことでしょう。あの行動で、国民が幸せになれる筈がありません。誰が得をするのでしょうか。

◆来年開催されるサッカーのワールドカップ決勝大会に、日本が堂々と進出を決めました。自分が勝ったように嬉しく思います。文明のある現代、戦争によって命を奪い合う愚かさを捨てて、国と国はスポーツによって正々堂々と戦って欲しいものです。

◆決勝大会進出を決めたオーストラリア戦で2点目のゴールを決めた井手口選手は、21歳の若さですが既婚で、娘さんもいるそうです。奥様は母親が病気で余命半年と宣告された際に、安心させる為に結婚したとスポーツ紙にありました。

◆井手口選手は「嫁と娘は俺が守る!という気持ちはでかい。自分のために、というより、誰かのための方が頑張れる」と語ったそうです。さすが日本の代表、人柄も素晴らしいではありませんか。

◆誰かの為にと頑張ることが、すなわち自分の為になる、これは仏教の『自利利他』です。自分を高めれば、他人や世の中に対してより役に立つ事が出来るのです。

◆先の井手口選手の活躍は、亡くなられたお義母様にとって本当に誇らしく、何よりの供養になった筈です。お彼岸は先祖を敬い、自分を高めて今日命のある事に感謝を捧げる仏教徒にとって大事な期間です。私達はそれぞれ、生きている限り先祖の「代表」です。相応しい生き方をしているか、この期間に見つめていきましょう。
(禅林恭山)

第145号 平成29年 盂蘭盆号

慧光145号

盂蘭盆を迎えて
宗禅寺住職 高井和正
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺住職 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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盂蘭盆を迎えて

盂蘭盆を迎えました。正式には「盂蘭盆(うらぼん)」と一一還って、古来より亡きご先祖様がご自宅に戻ってこられる日であると云われている期間です。
一言に盂蘭盆と言っても、その時期は地方によって異なります。
一般的にはお盆は八月十三日〜十六日になりますが、羽村や近隣の地域のお盆は七月十三日十六日になります。
私が六年間お註話になった龍澤寺のある三島や近隣の伊豆半島北部地域では、七月と八月に加え、養蚕業の繁忙期を避ける意味で、晦日盆(みそかぽん七月三十一日〜八月三日) の地域もありました。

お盆飾りの支度は、始まる前の日までに済ます地域と、お盆入りの日にする地域の両方があるようです。机や専用の棚の上に真菰(まこも)のむしろを敷いて精霊棚を支度します。精霊棚にお位牌を安置していただき、ご先祖様の行き帰りの乗り物になる潟と牛をナスとキュウリで作っていただき、帰ってくる時の目印のために鬼灯(ほおずき)や提灯でお飾り致します。

仏教のお供え物はお膳とお菓子と果物と生花が一般的ですが、お盆には特別に「水の子」といって、洗米にナスとキュウリを細かく賽の目に切ったものを蓮の葉を敷いたお皿に用意したり、素麺や夏野菜もお供えしたりします。また、食べ物をお供えする時は、故人がお好きだった食べ物を特別にご用意していただくと、より良い供養になります。

精霊棚の準備ができ、お盆期間を迎えたら、夕刻(黄昏時)に迎え火を焚きます。ご自宅の立関先で焚くのが一般的ですが、ご先組様の墓地前で火を焚き、その火を蝋燭に移して、ご自宅に持って婦って精霊棚の蝋燭に移す嵐習もあります。

供養の仕方はお線香を焚くだけではなく、禊萩(みそはぎ)の花束(五〜 六本)の先端を水に浸して、その水をお供え物に手向けてあげるやり方が一般的で、これを水向けと言い、お寺のお盆供養である、施餓鬼法嬰でも水向けがされています。

最近では、お盆飾りがスーパーなどで売られており、使利な時代になりました。
便利なれども、支度はお一人でするのではなく、ご家族皆様で行なっていただき、みんなでお盆をお迎えしていただけると有り難いです。

(宗禅寺住職 高井和正)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その8

一坐の功を成す人も
積みし無量の罪ほろぶ
悪趣何処に有りぬべき
浄土即ち遠からず
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

※悪趣
悪業を積んだ後、趣くとされる世界のこと。地獄界・餓鬼界・畜生界を三悪趣という(修羅界を含めて四悪趣ともいう場合がある)。

◆意訳
「たとえ一日の内の僅かな時間であっても、坐禅をすれば、積んでしまった悪業による罪は消え失せてしまうであろう。
地獄など、一体どこに有るというのだろうか?極楽浄土もまた同じで、どこか遠くにあるものではなく、自らの目の前にあるものではないだろうか?」

坐禅とは?
坐禅和讃は白隠禅師による「坐禅のススメ」とも言えるお経です。「一日の内のわずかな時間でも坐禅をしてみてはいかがでしょうか」と、白隠禅師がおっしゃっています。禅宗は坐禅宗とも言いますが、では肝心の坐禅とは一体何なのでしょうか?

アニメにもなった禅宗の有名な和尚さんに一休さんがおられます。その一休さんが次のような言葉を残されています。
「一寸の線香 一寸の仏 寸々積み成す 丈六の身 三十二相八十種好 自然に荘厳す本来の人」

三十二相や八十種好は仏様の特徴のことで、お線香が一寸燻る問、誠の坐禅をすれば、そのまま仏となれるとおっしゃっています。

仏像は心の象徴
仏のお姿を形として具現化したものに、仏像があります。お釈迦様や観音様やお地蔵様など、様々な仏様が宗禅寺にはおられます。鎌倉の大仏様や建長寺のお地蔵様など、ほとんどの仏様に通しているのは、その御姿、表情の穏やかさです。
実際に面と向かって手を合わせてみると、自分の心が落ち着いたり、逆に自分の慌ただしい心に気付いたりと、仏像を拝むことによって自らの心を振り返ることにもなるようです。

坐禅をするということも同じことではないでしょうか。坐禅をすることがもたらしてくれるものは、心の平穏です。人間には誰しも喜怒哀楽の感情があります。感情は時として人生を豊かにしてはくれますが、時としては他人や他ならぬ自分自身をも傷つけてしまうことがあります。

一日のうち、わずかな時間でも坐禅をすることによって、感情に揺れてしまっている自分の本来持っている穏やかな心と出会えることを白穏禅師がおっしゃっています。自分の心が穏やかであるならば、自分がそのまま極楽浄土になれるのです。

(宗禅寺 住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第五話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。

貞門派(ていもんは)
前回、俳諧の成り立ちと、それ以後の発展をお話ししましたが、その発展の基礎を築いたといえるのが「松永貞徳」を祖とする「貞門派」といえます。芭蕉の俳諧における師となります北村季吟も貞門派の一人でしたので、芭蕉の俳句の入り口は貞門派だったのでした。その特徴は「言葉あそび」といわれるもので、その芸術性には限界があるといわざるを得ないものでした。

「野ざらし紀行」
仏頂禅師との出会いで禅の道に入り、俳階に新たな表現を模索していた芭蕉に一筋の光が見えて来たところに不幸がおとずれます。住としていた芭蕉庵が焼失してしまったのです。
冬空の寒風の下、焼け出されてしまった芭蕉は強い無常観におそわれました。その後、庵は再建されたのですが、無常観は失せる事無く芭蕉の胸中に残ったのでした。

この頃、芭蕉はさかんに「笠」を題材とした句を残しています。
また笠を自ら竹をさいて作ったりもしました。「笠」を最小の「庵(いおり)」と考え、風雨から身を守る点で同じなのだから笠を携え、旅の中に身を置きたいと考える様になったのでした。

美濃(岐阜)の俳句仲間に誘われたのをきっかけに、四十一歳の芭蕉は旅に出ました。前年に母が他界し、その墓参もかねてのものでした。この旅に芭蕉は強い覚悟を持って臨みました。

野ざらしを心に風のしむ身かな
旅立ったあたり、その心境を詠んだとされる匂です。野ざらしは行倒れの人の頭骨の意です。
では芭蕉は死を覚濯してこの旅に出たのでしょうか?いや、そうでは無く、自らの俳諧を確立するという不退転の覚培を表明したのでした。放浪行脚の環境に身を置いて、自らの禅的境涯を高める、つまり悟りを得るのだという覚嬬ともいえるでしょう。

実際この「野ざらし紀行」の旅で芭蕉は「蕉風」と呼ばれる自らのスタイルを確立しました。旅の途中で除々に作風がかわっていくのですが、それはとりも直ささず、芭蕉の禅的境躍の高まりを示唆しているのです。

「物我一致」ぶつがいっち
物とは自分以外の全て、つまり対象を指します。それが我と一致する、自分と他者を分けない無分別の境程、これを芭蕉はこの旅で得たと考えられています。
無分別とは自分が無い状態、つまり無我の境地です。そこで物だけが残る、自らが物になりきる、これが「物我一致(芭蕉は一智とも表した)」の境涯です。
この境涯から見える景色を俳句として詠むことで芭蕉は俳諧というものに新たな地平をもたらしたのでした。
以下次号
(一峰 義紹)

禅寺雑記帳

◆今年もあっという間に半年が終わり、お盆となりました。先祖や亡くなられた家族が皆様の元に帰ってくるのです。家の内外を清浄にして、心も綺麗にして気持よくお迎えをいたしましょう。

◆先日テレピで拝見した歌手、俳優の加山雄三さんが心がけている「人生の三冠(カン)王」が素敵だったのでご紹介します。
○関心を持つ(そして感心する)
○感動する
○感謝する
の三つを意識して生活する、というものです。今年で八十歳になられたそうですが、見た目も若々しく、今でも精力的にコンサートを行うなど本当に素敵なお年の取り方をされています。その秘訣がこの「三冠王」なのでしょう。

加山さんは高校生の頃、お寺へ通って修行をされたともお話されていました。
三十代で事業に失敗し、二十三億円もの負績を拍問えたこともあったそうです。
しかしその修行経験から、「どん底は絶対ある。そういう事を経験して乗り越えていく為に今生の生命はあるんだ」
「最初から楽で楽しいことだけやるんだったら、この生命は与えられなかっただろう」と必死に生きるのです。
土下座をする頭を蹴られでも自分が悪いのだからと考え、「この野郎」と思ったら負けだと自分に言い聞かせて堪えたそうです。お金が無くて何も無い中、奥様が中古のピアノを買ってくれて、そのピアノで「海その愛」等の曲を作ることが出来、その印税収入や、来た仕事は選ばずに何でも受けることで見事、借金を完済するのです。
こういう経験をふまえた上での「人生の三冠王」には、本当に説得力があります。

◆今年も「羽村灯篭流し」が、八月五日(土)十八時三十分から行なわれます。場所は宮ノ下グランドです。大勢の和尚方が唱えるお施餓鬼のお経と、鎌倉流御詠歌の皆さんの奉詠の中、多摩川に灯篭を流して供養する伝統行事です。先視供養だけでなく、家内安全、交通安全、青少年の健全育成などの祈願もする素晴らしい行事です。

一年でもっとも暑い時期ですが、川を吹き渡る風は涼しく、夕焼け空と漆黒の川面に灯篭が流れていく様子は言葉にあらわせない趣きがあります。未だ参加した事の無い方は是非この素晴らしさを実感してみて下さい。

当日来られない方でも、頼んでおけば当日に故人の戒名などを書いた灯篭を流して頃くことが出来ます。一基千円です。
詳細は各菩提寺にお尋ね下さい。
なお雨天の場合翌六日になります。
(禅林恭山)

第144号 平成29年 春彼岸

慧光144号

「看却下」ー己自身を知る
一峰 小住 義紹
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺副住 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 小住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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道はちかきにあり

ブータン王国という国を皆さんご存じかと思います。インドとチベットにはさまれた山奥の小国です。農業が主要産業で、水力発電によって得た電力を輸出して外貨を稼いではいますが、世界的にみても貧しい国の一つです。この国は政策として「国民総幸福(GNH)」というものを掲げ、経済発展ではない、近代化でもない道を選びました。実際に数年前の国民アンケートでは90%以上の人が「私は幸せだ」と答えた様です。

しかしその状況が変わりつつある様です。国がさらに貧しくなってしまった訳ではなく、むしろ経済的には発展しています。少しずつですが近代化もされています。けれども実はそれが、ブータンの人々の幸福を蝕(むしば)んでいったのです。経済発展により格差が生れ、稼ぎの少い農業に若者は従事しなくなりました。かといって仕事がある訳でもなく、失業者が大幅に増えました。隣国であるインドにより近代化が進んでいますが、そこで働いているのはインドから来た労働者ばかりで入り込む余地が無いのです。さらに近代化により、多くの情報が得られる様になったために、インドとプータン、他の国とブータンの生活格差を知る事となってしまったことも多くの人々の不満をあおっています。結果、幸せを感じる人の割合は下がってきてしまいました。

「幸せ」とは何でしょうか?それは自分自身が「私は幸せだ」と思うこと、感じることに他なりません。他人に決めてもらうものではないのです。他者と比べて自分はどうか?この思いにとらわれれば欲望が生れ、その欲望はとどまる事はありません。一つの欲望を満たして得られた満足は一時的なもので、また新たな欲望が生じてしまうからです。これでは欲望の奴隷となったも同然で「幸せ」とは程遠いものとなってしまいます。

「看却下」という禅語があります。脚(あし)下(もと)を看よ-つまり自分自身をみつめ直せという言葉です。情報のあふれる今の日本では実は難しい事なのかもしれません。たまには静かな環境に身を置いて、自らに「幸せか?」と問いかけてみてはいかがでしょう。
(一峰 小住 義紹)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その7

夫れ摩訶衍(まかえん)の禅定は
称歎(しようたん)するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜(しょはらみつ)
念仏・機悔・修行等
其品多き諸善行
みなこの中に帰するなり
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

※摩訶衍(まかえん)
言語のマハlヤナを漢訳した言葉です。ここでは大乗仏教をさしています。大乗は大きな乗り物という意味で、広く一般の民衆をも仏教で救われるという考え方です。白隠禅師もまた、坐禅によって出家者のみならず、在家の皆様も救われると考えておりました。

◆意訳
「大乗仏教の心を落ち着かせる坐禅による禅定こそが何物にも変え難い最上のものである。様々な善行修行があるが、それらも禅定があればこそのものなのだ」

仏教には悟りに到達するための様々な仏行があります。ちょうどお彼岸を迎えました。お彼岸はお墓参りに行き、ご先祖様にご挨拶をするという習慣が一般的ですが、本来はお中日に先祖供養の法要を行い、残りの六日間で六つの修行徳目(布施・持戒・精進・忍辱・禅定・智慧)を修めて悟りに達しようという仏教週間です。その六つの徳目の一つにも禅定ということばが入っています。

禅定(ぜんじよう)とは?
禅定の基本は坐禅による精神集中になります。我々の目の前には日頃から常にたくさんの情報が飛び交っています。心の中は都会の雑踏のような状態ですから注意が色々な所に向いてしまいます。そうした雑多な情報をすべて遮断して一つの対象に集中させるということです。精神集中というと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、皆様も日頃から、自動車や自転車の運転、お料理やお勉強、読書など、自分の精神を集中させているはずです。その集中した精神作用を禅定というのです。

日常の生活行為や科学技術の研究・発展、スポーツや芸術などの文化活動に到るまで、人間のあらゆる行いは、そうした集中した精神作用、禅定からもたらされているものだと言えることができるでしょう。

白隠禅師は坐禅によって出家在家にかかわらず、誰しもが禅定の力を得ることができると信じておりました。

坐禅は姿勢を正して坐り、丹田(下腹)からの深い呼吸を繰り返して行うものです。ただただ、自分の呼吸のみに没頭していくのです。自分の呼吸に没頭していくと、仕事や家庭でのしがらみを離れた、本当の自分に出会えます。坐禅の素晴らしい世界を味わっていただければ有難いです。
(宗禅寺 福住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第四話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳詰(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。

貞門派(ていもんは)
前回、俳諧の成り立ちと、それ以後の発展をお話ししましたが、その発展の基礎を築いたといえるのが「松永貞徳」を祖とする「貞門派」といえます。芭蕉の俳諧における師となります北村季吟も貞門派の一人でしたので、芭蕉の俳句の入り口は貞門派だったのでした。その特徴は「言葉あそび」といわれるもので、その芸術性には限界があるといわざるを得ないものでした。

蕉風 続き
松永貞徳を祖とする「貞門派」においのちて俳階の道に入り、江戸に下って後は西山宗因率いる「談林派」の影響を強く受けてその道を遁進(まいしん)していた芭蕉でしたが表現の壁につきあたり、それ迄のものとは違う独自の表現を模索していたところ仏項禅師に出会い、その薫陶を受ける事により、新たな俳階への道がみえてきたところまでが前回のお話でした。「俳階は気先を以て無分別に作るべし」と、弟子達と丁々発止の句会を行い始めたのも、「活溌溌地(かっぱつはっち)」という言葉に代表される臨済禅の重んじる瞬発力を俳階に生かそうと考えたからかと思われます。また芭蕉は禅師に会う前から古代中国の思想家路引の書「荘子」に健倒していましたが、その理解は滑稽本ととらえてのものでしかなかったのですが、禅の薫陶を受けて後は「荘子」の持つ世界への理解が深まり、それもまた芭蕉に大きな影響を与えたのです。老子・荘子に代表される「老荘思想」の世界観は中国で生れた禅宗のバックボーン(背骨)ともいえるものですので当然ともいえるでしょう。ちなみに仏項禅師は四十一才にして弟子に寺を譲り放浪行脚(ほうろうあんぎや)の旅に出ました。この生き様もまた、芭蕉に影響を与えたかもしれません。

住としていた芭蕉庵が消失してしまいまた禅師の薫陶や「荘子」の影響で「無常観」といったものを強く感じる様になった芭蕉は頻繁に旅に出る様になります。そしてその旅先で見た事、聞いた事、体験した事、さらにそこで詠んだ俳句を紀行文として多く残しました。一番有名なのは「おくのほそ道」ですが、最初の記行文は「野ざらし紀行」となります。これは芭蕉が仏頂禅師と同じ四十一才の時に行った旅を-記したものですが、この旅において芭蕉の俳諸に一つの答えといえるものが確立されました。「蕉風(もしくは正風俳譜)」と呼ばれる事になる芭蕉独自のスタイルはそれまで隆盛を誇ってきた談林派にかわって俳詣の主流となり、またそれまで、低くみられていた俳請の地位を上げ、芸術性の高さを認められるに至りました。以下次号

・野ざらしを心に風のしむ身かな
・道のべの木槿は馬に食はれしむ
・馬に寝て残夢月遠し茶の煙

「野ざらし紀行」より
(一峰 小柱 義紹)

禅寺雑記帳

◆暑さ寒さも彼岸まで」、とは良く言ったもので、この時期になると寒さもひと段落し、ほっとします。しかし年度が変
わる時期でもあり、生活環境が大きく変化する方も多いことでしょう。また花粉症の方にとっては一年中で一番憂欝な時期の筈です。春は精神的にも肉体的にも大きく負担のかかる季節、どうか皆様の心身が健やかでありますように。

◆一万五千人以上の方が亡くなり、福島第一原発事故の起きたあの東日本大震災から丸六年となり、犠牲になられた方は七回忌を迎えました。未だに七万人以上が仮設住宅での生活を余儀なくされており、行方不明の方が二千人以上もおられるそうです。あの時から時間が止まったままという方もいらっしゃることでしょう。あらためて亡Kなられた方々の御冥福をお祈りし、被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。

◆アメリカではトランプ政権が動き出しました。あの方の言動を見ているとこの先、カッとなっていきなり核のスイッチに手を伸ばすことさえあり得る気がします。自然災害も怖いですが、これは誰にもどうしょうもないことです。しかし指導者が誤った判断で起こす人災や混乱は有って欲しくないものです。任期の四年が無事でありますように。

◆今年のNHKの大河ドラマ『おんな城主直虎』は、戦国時代、井伊家の断絶を救った女性武将、井伊直虎の生涯を描いています。(女性では無かったという説もあるそうですが。)-昨年の『真田丸』が傑作でしたので視聴率ではやや苦戦しているそうですが、劇中に登場する寺は皆、我が臨済宗の寺院ですので、是非ご覧頂きたいと思います。

◆訳あって尼僧となった主人公のいる寺は龍揮寺(りょうたんじ)、井伊家の菩提寺で、妙心寺派です。劇中、禅問答を使ったセリフも度々出てきます。今川家の人質となっている徳川家康のいる寺は臨済寺、今でも雲水が修行をしている道場があります。

◆井伊家、今川家に限らず、戦国時代の有力な武将のブレーンは、殆ど臨済宗の僧が務めています。当時の寺は、現代で
言うと士宮学校やビジネス学校のような役割も持っていました。仏教書だけでなく、『論語』や『孟子』を含む『四書五経』といわれる儒学や、有名な『孫子』を含む『武経七書』といった兵法書まで読まれていたのです。

◆当時日本で一番のエリートが臨済宗の僧でした。各地で武将を精神的に支え、また領国の経営や政治、戦術の師でもあったのです。

◆臨済宗が日本という国の在り様にこれまで大きく関わっていた事を誇りに思うと同時に、今でもそうであるように精進せねばと思う次第です。
(禅林 恭山)

第143号 平成29年 正月

慧光143号

道はちかきにあり
禅林恭山
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺副住 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 小住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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道はちかきにあり

長く謹慎させられていたある武士が、謹慎中に書物を通して禅に興味を待ちました。謹慎が解けた武士は、早速有名な禅僧の元を紡ねます。
「漢籍に『道は爾(ちか)きにあり、しかるにこれを遠きに求む』とある。ところで、『禅の道』とは如何なるものか」と問うのです。すると禅僧は何も言わずに武士.を突き飛ばし、座っていた座布団を手前にさっと引きました。パンザイのような姿で後ろへ倒れる武十を残し、禅僧は自室へ戻ってしまいます。武士は屈辱にに刀を抜こうとしますが、禅僧の弟子の修行僧がなだめ、別室で「まあお茶をどうぞ」と進めます。
武士が気を取り直して手を伸ばすと、修行僧が湯呑をぱっと倒してしまうのです。お茶は飛び散り、武士の着物はピシヨピシヨです。武士は、
「師匠が師匠なら、弟子も弟子だ。ともに成敗してくれよう」と激怒します。その時、弟子が、
「こういう時、貴殿の承知しておられる『道』ではどのようにふるまいますか」と尋ねるのです。 激昂のあまり武士は一言も答えられません。すると修行僧は、
「わが『禅の道』ではこのようにいたします。」といって、袂から手拭いを出して丁寧に武士の着物を拭きはじめたのです。
ここで武士はハッと我にかえり、あらためて禅僧に教えを乞い、ついには居士として修行を完成することになるのです。
この武士は第二次伊藤博文内閣の外務大臣をを務めた陸奥宗光の父で、紀州藩士の伊達千広という方、禅僧は越渓守謙(えっけいしゅけん)、妙心寺僧堂を開いた方です。

まさかと思っていたトランプ大統領が誕生し、イギリスがEU離脱を表明、韓国では大統領を弾劾する大規模デモ、世界中が不安定でこの先どうなるかと、なんとも不安にかられます。しかし世界がどうであれ、自分がしっかりしていればいいのです。国の前の一つ一つの事に、しっかり向き合っていきましょう。道はいつでも足元にあるのです.
(禅林恭山)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その6

闇路(やみじ)に闇路(やみじ)を踏み添えていつか生死(しょうじ)を離(はな)るべき
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

◆意訳
「長い長い真っ暗闇の迷いの道を歩んでこそ、いつかは迷い苦しみの闇から抜けだせるのです」

生死を離れる
前回は六道が空想的なものではなく、今を生きている我々の心の中にあるものだというお話しでした。我々の心は常に悩みや迷いを抱えているものです。
仏教においては生死、つまり生きることと死ぬことは迷いを表わす典型的な言葉として用いられます。その迷いの中身は生きることは良いことで死ぬことは不幸なことという二元的な物の見方です。自分の好きな上司と嫌いな上司。自分の好きな仕事と嫌いな仕事。理想の自分と今の自分。人生では同級生や身近な人を自分と比較してしまい、気落ちすることもあったりするのではないでしょうか。

不自然(ふしぜん)不思悪(ふしあく)
ふしぜんふしあく。善く思わず、悪く思わずという言葉があります。良いことや得したと思ったことが起こってもそれを良いことだと受け止めず、また、嫌なことや損したことがあってもそれを悪いことだと受け止めないという言葉です。

さようならという日本語
さようならという日本の挨拶があります。一般的には普段は「失礼致します」とか、「ありがとうございました」とか「お世話になりました」という言葉を使ってお別れをすることが多いと思います。仲の良い友人であれば「じゃあ、またね」で済ますこともあるでしょう。
さようならという言葉は重大なお別れの時に使われることが多いと思います。
さようならの元の言葉は「然様ならば、左様ならば」。
つまり、「そうであるならは」という言葉です。もっと言うと「そうならなければならないのであれば」ということでしょうか。お別れは時に寂しく、悲しく、嫌なことではありますが、そのお別れに対して背を向けてしまうのではなく、別れなければならない事実を真正面から受け止めている言楽に聞こえます。

生死を離れるということも同じことではないでしょうか。目の前の自分の悩みや迷いを必要以上に悪く受け止めずに、前向きな気持ちで迷いや悩みに向き合い、時にそこへ自ら飛び込んでいくことが大事なのではないでしょうか。
向き合うからこそ、納得できるのではないかと、白隠さんがおっしゃっているように思えるのです。
(宗禅寺 福住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第三話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人たちを紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖(はいせい)」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。

貞門派(ていもんは)
前回、俳諧の成り立ちと、それ以後の発展をお話ししましたが、その発展の基礎を築いたといえるのが「松永貞徳」を祖とする「貞門派」といえます。芭蕉の俳諧における師となります北村季吟も貞門派の一人でしたので、芭蕉の俳句の入り口は貞門派だったのでした。その特徴は「言葉あそび」といわれるもので、その芸術性には限界があるといわざるを得ないものでした。

談林派(だんりんは)
貞門派の俳諧から離れ、その世界をさらに大きく発展させたのが「西山宗因」を祖とする「談林派」でした。宗因は言葉遊戯を主とする貞門派の古風を嫌ってきまり事を簡略化し、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特徴とする作風を完成させました。これにより俳諧の持つ世界観が拡がり、活発性も与えられて同時に芸術的可能性を大きく高めました。
多くの支持を集める事となった談林派は貞門派に替って俳諧の主流派となりました。江戸に出てきて間もない頃の芭蕉が西山宗因に会い、大きな影響を受け、後、作風も談林派風になります。後に芭蕉は「上に宗因なくんば、我々の俳諧今以(いまもっ)て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし、宗因はこの道の中興開山なり」と述べています。

薫風
西山宗因を中心とした談林派の影響のもと、俳諧の道を歩んでいた芭蕉でしたが、次第に談林派の持つ軽薄性に表現的限界を感じるようになります。そんな時に転居先の深川で、仏項(ぶっちょう)禅師という高僧と運命的な出会いをします。
茨城鹿島の根本寺(こんぽんじ)の住職であった仏項禅師は、たまたま訴訟事のために深川に逗留していたのでした。
その人柄に感銘を受けた芭蕉は禅師のもとに参禅を重ねました。二年足らずの交流でしたが、その熱心さと禅機(禅的素質)が認められ「ひとり開禅の法師」と呼んでもらえるまでになりました。「ひとりでも悟りの境地に到達できる人」といった意味でしょうか。その影響は明らかで、以後作風も変化を見せます。
芭蕉庵(芭蕉の住)で行われる句会で門人達と丁々発止のやりとりで作句が行われる様になりました。「俳諧は気先(きせん)を以て無分別に作るべし」と芭蕉は弟子たちに教えています。これは臨済禅の特徴である瞬発力の影響と思われます。
以下次号
(一峰 小柱 義紹)

禅寺雑記帳

◆年が明けました。年々、一年の経つのが加速度的に早くなっていくように感じます。明けたばかりの2017年ですが、ぼやぼやしているとあっという間に終わってしまうのは明白、「今年はこういう年にしよう」「今年はこれに力を入れて過ごしていこう」など、しっかり計画を立てて臨みたいものです。良い年にいたしましょう。

◆昨年は私たち臨済宗の祖、臨済禅師が亡くなられて1150年、また江戸時代に臨済宗を立て直した白隠禅師の250年の節目ということで、一年を通して様々な法要や行事、展示が開催されました。参加、ご協力頂きました皆様、本当にありがとうございました。

◆上野の国立博物館で開催された「禅ーこころをかたちに」展は質も量も素晴らしく、まさに50年に一度の臨済宗の集大成といえるものでした。お釈迦様からの2500年、臨済禅師からの1150年、日本に臨済宗が伝えられてからの800年、白隠禅師からの250年が連綿と繋がって今の日本の様々な文化、私たち日本人の暮らしがあることを理解できる展示でした。次の1200年の節目の時も今のように平和な日本であって欲しいものです。
その責任は今を生きる私たちにあります。

◆昨年放送されたNHKの大河ドラマ「真田丸」が大好きでした。最近の大河ドラマは途中で嫌になって見るのをやめてしまう事が多かったのですが、この作品は家族揃って一年間見続ける事が出来ました。お陰様で、あらためて歴史に興味を持つようになりました。

◆中世、羽村は青梅の勝沼城を拠点とした三田一族が治めていたのですが、戦国時代に条氏によって滅ぼされ、北条の家臣の大石氏が支配していました。羽村小学校のそばには大石遠江守(とおとうみのかみ)の館があったといわれる遠江坂(とおとうみざか)があります。

◆その北条氏も、豊臣秀吉の小田原攻めで滅ぼされるのですが、その戦いの際に八王子城を攻撃したのが、前田利家、上杉景勝、そしてあの真田昌幸(草刈正雄が演じた信繁の父)でした。この戦いにはきっと、羽村の人間も沢山参加したのではないでしょうか。この後、徳川家康が江戸に入り、人口が飛躍的に増える為、玉川上水が作られ、その要の地、羽村は徳川の領地になるのです。玉川上水の維持管理の為、羽村には毎年、幕府から莫大なお金がもたらされたそうです。

◆先にも述べた臨済宗中興の祖、白隠禅師には厳しい師匠がいました。道鏡慧端(どうきょうえたん)一般的には正授(しょうじゅ)老人として知られる方です。その指導がなければ白隠は生まれなかったのですが、その道鏡慧端の父は、真田信之(大泉洋が演じた信繁の兄)です。

◆歴史は決して他人事ではなく、全て繋がって今があるのですね。
(禅林 恭山)

第142号 平成28年 秋分号

慧光142号

公とは「世のため人のため」
禅福 泰文
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺副住 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 小住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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公とは「世のため人のため

日本中がオリンピックの熱狂に覆われる少し前、天皇陛下が生前退位のご意向を国民に示されました。その又少し前、公的資金の私的流用を疑われた都知事が退職し、新しい都知事が選ばれました。この二つの出来事は、われわれに「公」と「私」という問題を考えさせる、良いきっかけとなりました。
まず、天皇陛下が「お言葉」を述べられたおかげで、陛下は何と厖大な量のお仕事をされているのか、ということをわれわれ国民は知らされました。そして、その仕事の中味は「民の安寧と国の平安を祈る」ことに尽きる、と知らされました。つまり、天皇陛下は日夜「世のため人のため」に、その幸せを祈って下さっている、ということです。自分の幸せを折るのではなく、他人の幸せを祈るということを公の仕事としている人は、天皇陛下以外には誰もいないでしょう。天皇という立場に「私」は存在しないのです。何と貴く重い立場であることか。
翻って、前都知事の公私混同については、多くの批判が繰り広げられました。これは個人の資質ということもありますが、究極的には公を忘れ私を利するという、凡俗の精神の為せる業であると言えます。しかし、他人を批判する前に、自分が同じ立場に立ったとしたら、果たして同じことはしない、誘惑や欲望には負けないと言い切れるのか、本当は考えてみる必要があるのです。凡人であるわれわれは、実は誰でも同じ誤ちを犯す可能性がある、と考えた方が良いのです。
「人の振り見てわが振り直せ」と昔の人は一言いました。天皇陛下に倣う、などというのはおこがましいことですが、今こそわれわれ日本人は、戦後失われた公の精神、「世のため人のために尽くす」という生き方を取り戻さなければならないのではないでしょうか。
それは「自分のみ可愛い」という偏狭な心凡夫の心から、広大な慈悲の心仏の心への転換でもあります。若い人にそのきざしがあります。希望があります。
(禅福 泰文)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その5

六趣輪廻(ろくしゅりんね)の因縁は己が愚痴の闇路(やみじ)なり
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

◆意訳
私達の心は常に地獄・餓鬼・畜生・修羅・天上・人間という六つの迷いの世界を行ったり来たりしている。いつも迷いの世界にいるのは、境遇や環境のせいではなく、自らの心の愚かさにあるのだ。

六趣輪廻とは
仏教の下地になっている基本的な考えに輪廻があります。元々は仏教誕生以前からインドに存在していたバラモン教(ヒンドゥー教の原型)の考え方で、仏教の生まれたインドの基本的思想ともいえるものです。輪廻転生ともいい、「流れること、転位すること」を意味しており、命あるものの生死の繰り返しが未来永劫続いていくという意味の言葉です。
六趣とは、その繰り返しが六つの世界にまたがって続いていくということです。

◆地獄界
絶え間ない苦しみが続く世界

◆餓鬼(がき)界
いくらあっても、「まだ足りない」と思う、ガツガツとした貧りの世界

◆畜生界
自分のことをコントロールできずに、欲望に負けてしまう世界

◆修羅界
周囲と強調しない、激しい争いの世界。
修羅場という言葉の元

◆人間界
恨みや妬みのある世界

◆天上界
極楽の世界であるが、その極楽は長続きしない世界

今生きている我々からすれば、六道は死後の世界ということになるのかもしれません。昔から悪いことをした人は地獄に堕ちると考えられていました。他ならぬ白隠禅師自身も幼少の時、近所のお寺で見た地獄絵図に恐れ戦き、地獄へ行きたくがないために仏道を志すのです。しかしながら、地獄や六道は本当に死後の世界にあるものなのでしょうか?
かつて、とある武士が白隠禅師に地獄と極楽の存在問うた時、自穏禅師は相手の武士をわざと罵倒し挑発しました。堪忍袋の緒が切れた武士は、禅師に対し刀を抜いて切りかかりました。そこで禅師は「そこが地獄である」とおっしゃりました。禅師がおっしゃりたかったのは、人を刀で切りつけるという恐ろしい心を誰もがもっているということです。六道は外にあるものではなく、自分の心にあるものなのです。我々はすでに六道にどっぷり浸かっているのです。
「六道の辻に迷うぞ憐れなり身は極楽の真中に居て」
(宗禅寺 福住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第二話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣皆で進めていこうというこの項ですが、今回より江戸時代前期に生き、日本の俳諧(はいかい)(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」を取り上げたいと思います。

紀行文
前回にお話しした様に芭蕉は多くの紀行文(旅行しながら、その土地の事を記したもの) を残しています。代表的なものは皆様もご存じの「おくのほそ道」ですが、その他にも「野ざらし紀行」「更科紀行」などがあります。仏頂禅師からの薫陶や愛着ある自らの庵の消失などで「無常観」を深く植えつけられたためだといわれていますが、その芭蕉の持つ「無常観」は有名な「おくのほそ道」の序文「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」にもあらわれています。
ほとんどが徒歩であった当時の旅行ですから、これだけの紀行文を残すという事は大変なことで、その後半生の多くを旅行していたといえます。51才で亡くなったのも旅先の大坂(現在の大阪)でのことでした。

俳諧――芭蕉以前・以後
さて先ほど芭蕉は俳諧を芸術的域にまで高め大成させた――と記しましたが、そもそも俳諧とはどの様にして生れ、発展してきたのでしょう。
「俳諧」には、「滑稽」「戯れ」「機知」「諧謔」等の意味があります。室町時代に盛んであった和歌のうち、表現を滑稽・洒脱にして、より気軽に楽しめるようにした文芸が「俳諧の連歌」と呼ばれて一般に広く浸透していきました。
当初は連歌の傍流という立場でしたが、次第に愛好者を増やし、一定の地位を築くに至ります。連歌は先ず誰かが発句(五・七・五の部分)を作り、他の者がそれに句を付けていくという作法となりますが、発句のみで完結させるという表現が出て来て、これが現代に通じる「俳句」の元となりました。

江戸時代となり、世に太平が訪れると俳諧は一層盛んになりますが、それまで遊戯的であった俳諧に「わび・さび」といったものを取り入れようとする流行がおきました。短歌には古くから「わび・さび」の概念はあったのですが、俳諧独自の「わび・さび」の表現を追求するようになっていきました。
芭蕉はそこに一つの答えを導き出し、俳諧を大成させたといわれています。もともと遊びであった「俳諧」を芸術的域にまで高めた芭蕉は何をしたのでしょうか?
以下次号
(一峰 小柱 義紹)

禅寺雑記帳

◆南米大陸初のリオデジャネイロのオリンピック、色々問題が多く開催自体が心配されましたが、無事に終わりました。
日本は過去最多の41個ものメダルを獲得、逆転での勝利も多く、本当に興奮し勇気や感動を与えられました。次はいよいよ東京オリンピック、楽しみです!

◆臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念の「鎌倉大坐禅会」が10月29日(土)30日(日)に建長寺と円覚寺にて行われます。老師さまの提唱(講義)と坐禅でニ時開程、事前に申し込みが必要です。食事のついた回もあります。各寺に申し込み用紙がありますが、ネットから直接申し込む事も可能です。応募締め切りが9月30日迄ですが、定員に達した回から締め切りとなりますのでお早めに、次の機会は50年後ですよ。

◆もう一つ遠諱の関連企画・『禅―心をかたちに』展が10月18日から11月27日まで、上野の東京国立博物館にて開催されます。日本の文化、精神性、私たちの普段の生活にも多大な影響を与えて来た臨済宗の貴重な資料が、大徳寺や南禅寺など全十五派の全面的な協力で一同に会します。事前申し込みが必要ですが記念講演や尺八イベント、建長寺派に
よる「四ツ頭茶札」などの特別な催しのある日もあるので、興味のある方は菩提寺に尋ねるか、ネットで検索してご参加下さい。これも貴重な機会です。是非!
(禅林 恭山)

第141号 平成28年 盂蘭盆号

慧光141号

わが釈迦牟尼の声と姿と
宗禅寺副住職高井和正
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺副住職高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 小住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 啓純

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わが釈迦牟尼の声と姿と

お盆を迎え、羽村臨済会のお寺では施餓鬼法要が営まれます。お盆の施餓鬼法
要は本堂の使い方が普段とは異なります。ご本尊様の前に施餓鬼棚を設置するのではなく、本堂の外側に向けて施餓鬼棚を設置しています。不思議なことに羽村市
内の四ケ寺の本堂の正面は全て同じ方角を向いているようですが、施餓鬼棚の向
こう側には、広々と地球の大地、大自然が広がっています。
峰の色 谷の響きもみなながら
わが釈迦牟尼(しゃかむに)の声と姿と
(道元禅師〉

曹洞宗の開祖、道元禅師は全ての命あるものの仏としての姿を和歌に残されま
した。我々命あるものは全て仏であり、その命あるものは全て仏であり、その命を生み出し、育んでくれる山野の青々とした森林、絶え間なく流れる谷川の響きもすべてお釈迦様の説法であると申しておられます。

我が町、羽村を走っている電車青梅線はホリデー快速なる便があり、週末ともなる
と都内からハイキングに来る大勢の乗客を乗せて走っています。羽村のチューリップ
や桜のお祭り、多摩川の美しい景色など、人間は大自然と相対した時に、心の中で癒しを感じる生き物のようです。その癒しを感じる心こそ、塵や垢のついていない、清浄なる仏の心だと言えるでしょう。人間は高度な文明社会を営んでいますが、その文明社会の外側には大自然の社会があります。我々人間も大自然の一部なのであり、それは同時に皆様が平等に大自然の恵みを享受し、仏様の中で育まれている存在であることを示しています。

施餓鬼法要は時に殺伐とした文明社会の中での人間の心を、本来の大自然の一部としての姿に立ち返らせてくれる法要でもあります。我々人間を育んでくれる大自然の中の全ての命に対して施餓鬼棚を持っていることを実感するための法要なので
す。

自然の一部となり、本来の自分に立ち帰る。そんな夏になることを願っております。〈宗禅寺副住職高井和正〉

白隠禅師坐禅和讃を読んでみるその4

衆生木来仏なり
衆生近きを知らずして遠く求むるはかなさよ
例えば水の中に居て渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて貧里に迷うに異ならず
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)
※衆生―命あるすべての生き物のこと

自分探しの旅
ここ15年ぐらいでしょうか。自分探しという言葉が世に定着しているようで
す。昔と違い、必ずしも家業を継がなくても良い時代となった象徴ともいえる言
葉だと思います。自分がしたいことは何なのか?本当に今、勤めている会社で
いいのか?結婚相手はこの人でいいのか? 人生において重要な決断を迫られ
る時は誰にでも訪れます。確かに自分にとっての最良の地、自分の居場所はどこ
なのかということで考えれば、文字通り人生というのは自分探しの旅であると言
えます。しかしながら、自分探しで大事なのは自分の外側だけと言い切ってしま
って良いのでしょうか。

人生を歩む中で、我々は自分自身の力だけではどうにもならない出来事に出く
わします。会社の人事や自分の恋人や連れ合いの両親のこと、自然災害や自分の
体の病気なども含まれてくるでしょう。残念ながら自分の外側、周囲の環境に起
きることに対して、どうすることもできない自分がいるはずです。

白隠禅師はそんな我々の事を、「水の中にいながら渇きを訴え」、「裕福な家庭に
生まれながら、物乞いをしている」と坐禅和讃の中で例えておられます。

環境に左右されない自分を
白隠禅師は自分自身と向き合うことの大切さを説いておられます。人任せの人
生も、物任せの人生もないのです。自分の人生の主役は自分なのですよ、と。自
分自身の人生に起きたことを他人や周囲の環境のせいにしてしまうのはいかにも
容易いですが、自分の人生に起きた出来事を正誌に真撃に受け止めていく心を誰
もがしっかりと持っていることを忘れてはいけません。自分と向き合うことによ
って、自分の中にあるブレない自分、環境に左右されることのない絶対的な自分
の心を見つけることができれば、どこにいても、どのような状況になっても、自
分の持っている力を出し切れる素晴らしい自分でい続けることができるような気
が致します。

「おのれこそ おのれのよるべ おのれをおきて 誰によるべぞ よく整えしおのれこそ
まこと得難き よるべを獲ん」
(宗禅寺 副住職 高井和正〉

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第一話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、
偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣皆で進めていこうというこの項で
すが、今回より江戸時代前期に生き、日本の俳諧(はいかい)(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」を取り上げたいと思います。

その生涯

芭蕉は今の三重県伊賀市に寛永21年(1644年)に生れました。名字帯刀を許されるそれなりの名家である農家の次男として育ちましたが、父を早くに亡くし、経済的に困窮したため、伊賀上野の侍大将藤堂家に出仕しました。そのあとつぎの藤堂良忠に仕える事となった芭蕉(当時は宗房と名のっていた)は、良忠と共に京都の俳人「北村季吟」に師事(弟子となること)し、俳諧に足を踏み入れます。16才の時でした。そこで次第に頭角を顕していきます。季吟の下で俳句の腕を蕗き続けていた芭蕉でしたが、主君である良忠が死去し、また季吟からもその才を認められ、俳諧作法書「俳諧埋木(まいぼく)」の伝授(免許皆伝の意味を持つ)が行われた為、これを機に江戸へ向かうこととしました。
30才の時でした。

江戸においては「松尾桃青(とうせい)」と名を改め、様々な文人、俳人と交流を深め、多くの影響を受けます。その中でも大きな
事は臨済宗の高僧、仏頂(ぶっちょう)禅師との出会いでした。

その頃、深川に住居していた芭蕉は、同じく深川の臨川庵(りんせんあん)に逗留していた仏頂禅師と出会い、その禅的世界に魅了され、
禅師の下に参禅(禅の修業)して、その禅的境涯(きょうがい)を高めたのでした。

深川の芭蕉の庵(いおり)に、弟子の李下から芭蕉の株が贈られ、これが大いに茂ったことから、そのすまいを「芭蕉庵」と名付け、
自らも俳号を「松尾芭蕉」と改めました。その愛着ある庵を火事で失ってしまうのですが、この事は芭蕉に「無常観」
といったものを深く植え付け、これ以後、頻繁に旅に出る様になります。

芭蕉の残した紀行文(旅行しながら、その土地の事を記したもの)で有名なのは、東北、北陸地方を旅した時の「おくのほそ道」ですが、
それ以外にも郷里である伊費方面への旅で記した「のざらし紀行」であったり、その地多くの紀行文が残されています。
(一峰 小住 義紹)

禅寺雑記帳

■政治資金の様々な問題によって都知事を辞任した舛添要一氏の一連の問題には、本当に腹が立ちました。「不適切だが法には触れない」事を承知で、全て確信犯で税金を私していた様子がありあり、本当に狡猾で、こんな日本人がいるのかと悲
しくなってしまいます。湯河原の別荘に毎週のように泊まり、その往復は公用車。
災害など非常時の対応が迅速に出来る筈がありません。美術品をはじめ、私的使
用目的としか思えない数々の支払いも、家族的旅行や食事さえも税金を流用。海
外出張時は飛行機はファーストクラス、宿泊は一流ホテルのスイートルームとい
う贅沢。「東京都のトップが安いホテルに泊まったら恥ずかしい」や「湯河原は
奥多摩よりも近い」発言など、東大出ててもこの程度か、とガッカりさせられる
事ばかり、母親の介護をし世間的にはイメージが良かったようですが、これも嘘だったという報道もあります。もっと早く辞めていれば50億円もかかるという都知事選挙も’参院選挙と合わせて行えた筈です。こんな人をトップに担いだ事は残念だし恥ずかしく、情けなくなります。

■戦国時代を統一し、泰平の世をもたらした徳川家康は倹約家でした。そこには
天下というものは民のものであり、民のものは無駄にしては申し訳ないという確固
たる信念があったのです。

■徳川家康は幼少時代、今川家の人質として静岡の臨済寺に預けられました。も
ちろん臨済宗のお寺で、今も修行道場となっています。ここで住職であり今川家
の家臣でもある太源雪斎(たいげんせっさい)から、人としてかくあるべきという教えを学んだといわれています。その教えも元となり、以後260年も平和な世の中が続くことになるのです。今年は臨済禅師の1150年遠諱の年です。臨済宗がこのように日本に影響を与えていることを知っていて欲しいと思います。

■日本人は仏教の教えを通じて、公の意識を強く持つ国民です。儲よりも全体の
為に、という意識が高いのです。徳川家康がつくった江戸を引き継いだ東京の知
事が自分の事ばかり考えるような人間だったのは、本当に残念です。

■臨済禅師1150年の報恩大坐禅会が鎌倉で行われます。建長寺、円覚寺にて
10月29日~30日の土日の予定です。
詳細はお彼岸号に記載しますが、折角の機会なので予定を空けてお待ち下さい。

■毎年恒例の「羽村灯篭流し」が8月6日(土)18時30分から行われます。
場所は宮ノ下グランドです。当日来られない方も、頼んでおけば当日に故人の戒
名などを書いた灯篭を流して頂けます。一基千円です。詳細は各菩提寺にお尋ね
下さい。なお雨天の場合翌7日になります。
(禅林 恭山)

第140号 平成28年 春彼岸号

慧光140号

羽村、鎌倉の建長寺で学んだこと
宗禅寺 高井正俊
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる 3
宗禅寺副住 高井和正
禅と共に歩んだ先人 出光佐三 第九話
一峰 小住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山啓純

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羽村、鎌倉の建長寺で学んだこと

羽村にある四ヶ寺のお寺は全て、鎌倉の建長寺を本山とする臨済宗という禅宗のお寺です。今から四十年前、建長寺での修行を終え、羽村臨済会、そして西東京総済会を設立し、この四十年間は本山建長寺でいろんな仕事をしました。

羽村では先ず、四人の和尚さんが手を取り合い、合同の坐禅会、助け合い托鉢、仏教の勉強会、西東京はそれを更に拡大して、東京都下七十五ケ寺で講演会や会員相互の親睦、交流をはかり、共に仲間であることを確かめ合いました。

鎌倉はさすがに四百七ヶ寺の本山ですので、スケールの大きなことを経済的にも組織的にも宗教的にも支えられて、実に活発にさまざまに行ってきました。
その中で一番、心を配ったことは、今まで内向きであった建長寺(派)を、管長さんとも相談しながら、外を向いて開かれた寺にする努力でした。

建長寺は素晴らしい自然環境に恵まれて、禅宗の伽藍が維持され、永年の修行で確立している禅の生活があります。この素晴らしいパワーを有効に皆様に喜んでもらうにはどうしたらよいか。

毎週金・土の坐禅会、三門土曜法話、坐禅研修の受け入れ、講演会や各種イベントの開催、こんなに沢山のことをやっても大丈夫なのとの声を聞き乍ら、最近では震災復興支援事業のサポートと青少年育成事業に力を入れてやっています。

その基本に禅のお寺であること、手を合わせること、修行であることを置いて、お寺にはもともと、来山して下さる方の心をほぐしてくれる優しさや安らぎがあります。手を合わせることができ、吹いてくる風に心と体を癒し、そこにいるだけでホッとできます。お寺の和尚さんやそこにいる人、催しに参加して下さる方、催しを主催して下さる方々、みんなを受け止めて、安心していろんなことができるパワーをお寺はもっています。

建長寺の本尊様のお地裁様、そして各お寺の御本尊様が私たちを見守って下さっていること、沢山の支持を得て守られていることが、安心感を作ってくれているのでしょうか。

それぞれの村や地域にはお寺があり、神社があり、時には教会もあります。その存在は、元々私たちの心を支えて、育ててくれる場所であり、そのノウハウをしっかりもっています。宗教者も檀信徒の方々と、その素晴らしい存荘、役割をしっかり発見して、これを私たちの日常の生活の中に活かしていかねばなりません。宝のもちぐされ、ガラン堂にならないよう注意を怠ることなく励んでいきましょう。
(宗禅寺 高井正俊)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみるその3

衆生木来仏なり
水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく
衆生の他に仏なし
(白穏縛部坐禅和讃より抜粋)
※衆生(しゅじよう) この世の命あるものすべてのこと、生きとし生けるもの。

水も氷も本質的には同じもの
白隠さんが、水と氷に例えて我々の心の姿を説いて下さっています。
水も氷も元はといえば、どららも同じ成分のものです。科学的に言えば水素
二つと酸素一つが合わさったものです。ただ、周辺の環境によって寒ければ雨が雪
となったり、氷になったりするだけのものです、例えば水には決まった形はあり
ませんが、氷には形、があります。水は草水や動物などすべての生命の根源となりますが、氷では凍傷になったり時としては生命をも奪いかねない恐ろしさを持ち合わせています。このように水と氷では形も働きも大いに違うようです。まるで別物のように違う水と氷ですが、中身は全く同じものなのです。我々人間の心も水と氷と同じことが言えるのではないでしょうか。

執着(しゅうじゃく)の心
執着心という言葉があります。一般的には良い意味の言葉として使われる場合
もあるようですが、仏教では悪い言葉として捉えられています。 我々の心は一旦
執着してしまうとその対象に閲執してしまい、離れられなくなり、その対象以外
のものを受け入れること、が難しくなるからです。
心配ごとや不安の種も執着心から生まれるのです。白隠禅師はこの執着して固まってしまった人間の心のことを氷に例えているのです。いつもはサラサラと水のように流れている心が氷のように固まってしまうことがないでしょうか。

心は常に動いていいもの
皆様は何かをする時に、無理に心を落ち着かせようとしていないでしょうか?
心というものは常に動いていいもの、もっと言えば、常に動いていないといけないものです。 常に動いているのが正常な心なのです。例えば、道を歩いていてきれいな桜の花に出会ったとしましょう。「ああきれいだな」と一瞬間思います。時には足を止めて、見入ってしまうこもあるかもしれません。 その時、心は歩く動作にあるのではなく、桜に向かいます。道端の桜の花を見ても心が動かない場合は、心が氷のように固まってしまっている、何かに執着してしまっている自分がいるのではないでしょうか。

心は常に水の如く、サラサラと自由自在に流れていき、色々なものと融和していく、そんな心の働きを白隠禅姉が説いておられます。
(宗禅寺 副住職 高井正和〉

禅と共に歩んだ先人 出光佐三(いでみつさぞう)第九話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、戦前・戦中・戦後の日本の石油流通を支え、この国の発展に尽力した、今に続く「出光興産」の創業者である「出光佐三」の九回目をお話したいと思います。

鈴木大拙(すずきだいせつ)

出光佐三の人生を語る上で仙崖和尚(せんがいおしょう)と共に外せないのは「鈴木大拙」との交流です。その出会いは奇しくも仙崖和尚の墨蹟(ぼくせき)がもたらしました。

昭和三十一年、米国の美術館で開催された「日本文化祭」に佐三は自らが所蔵するも仙崖和尚の墨蹟を出品しました。米国ののコロンビア大学で客員教授をしていた鈴木大拙がこの展覧会に足を進び、その墨跡を堪能(たんよう)した末、佐三に手紙を出します。
「このようによく仙崖和尚の墨跡を蒐集(しゅしゅう)している貴下を尊敬する。一面識もないが、数十年の友人であった気がする」という内容でした。感激した佐三はすぐに返事を出し、そこから交流が始まりました。

鈴木大拙とは、本名を貞太郎といい、明治三年金沢に生まれました。佐三の十五才年長になります。東京大学哲学科選科を卒業後、鎌倉円覚寺の釈宗演老師(しゃくそうえんろうし)に参禅し、大拙の道号(修行者としての名)を得ます。明治三十年に渡米してから、欧
米各地で仏教思想を説き、「禅思想史研究」など多くの著書を著した日本の生んだ優れた思想家の一人です。

二人の初めての対面は昭和三十四年、熱海で静養中たった大拙を佐三が訪ねてのものでした。大勢のやり方に逆らい、独自の価値感と手段で会社を大きくして
きた佐三でしたが、内心では迷うこともあったでしょう。経営上の悩みを吐露(とろ)したのです。そこで大拙より「自信をもって貫け」という励ましを受け、また自信を取り戻したのです。

しばしば大拙の元を訪れた佐三は様々な教えを受け、その薫陶(くんとう)に触れました。
仙崖和尚が時空を越えた師であったと前回書きましたが、大拙はそこに具体性を与えてくれる生身の師であったといえるでしょう。大拙が九十六才で亡くなった時の追悼文では「(先生の死は)私にとって暗夜に灯火を失ったようなものだ」と述べています。

佐三の死後、その遺骨は郷里の菩提寺に葬られましたが、佐三の遺言により分骨され、その遺骨は鎌倉東慶寺の大拙の墓所の近くに納骨されました。大拙先生より決して大きな墓にしてはならぬとも遺言したそうです。この項終わり
(一峰 小住 義紹)

禅寺雑記帳

■「暑さ寒さも彼岸まで」とは本当によく言ったもので、春のお彼岸を迎え、緩かく過ごし易くなってきました。 しかし「陰」から「陽」へと大きく季節、が変わる時期、木の芽が吹くように、人間の身体も「開く状態」になり体調を崩しやすい時期だそうです。 春にやたらど眠いのはその為です。花粉症の方にとっては一年で最も憂鬱な季節でしょう。年度末でもあり、新年度の準備や卒業、入学、就職など切り替えの時期でもあって何かと忙しい時期です。春は心身ともに負担の大きな季節です。

■私達のご先祖様もそれぞれにいろんな事を乗り越えて今の私達へとバトンを繋いでくれた事でしょう。大変だけれども私達がなんとか今日を生きられる事をご先祖様に感謝して過ごすお彼岸とは、なんと素晴らしく、美しい行事ではないでしょうか。 どうぞ良いお彼岸を。

■これから暖かくなるにつれ、ジカ熱という新しい病気が流行りそうです。稀に死に至るケースもあり、また妊婦さんが感染すると胎児に深刻な影響が出る事があるという恐ろしい病気です。デング熱もそうですが、蚊によって媒介される病気です。お墓の花立てには必ず水があるので、お寺はどうしても蚊が発生しやすくなっています。夏場に花立ての水にボウフラがうじゃうじゃ湧いているのを見て震え上がった経験はありませんか。

■実はボウフラは鍋から出るイオンに弱いので、銅製の物を水に入れておくと、ボウフラが湧きません。十円玉でも良いのですが、お金は推奨出来ませんので銅線などを適当な長さに切って丸めて花立てに入れておけば効果がある筈です。花には問題ありません。本気で取り組むべき脅威だと思います。

■毎回お知らせさせて頂いております様に、今年は臨済宗の開祖、臨済禅師の千百五十年、そして日本の白隠禅師の二百五十年の大遠諱(おんき)を迎えています。まずはこの三月三日から一05まで、京都東福寺で日本中から3OO人の雲水(修行僧)が集まっての報恩大接心(大坐禅会)と、臨済宗各派の代表が集まっての大法要が厳修されました。(締め切りの都合、様子はわかりません。)

■この春、誰もが参加出来る記念イベントとしては、「春の京都禅寺一斉拝観」が実施されます。期間は四月十二日から五月二十二日まで。普段は非公開の加藍や寺宝が沢山公開され、坐禅会や写経、法話会、スタンプラリーなど、特別な催しも行われる予定です。興味のある方はパソコンや携帯がら検索して詳細をご確認下さい。尚、日本中どこでもそうですが、中国を始め、世界中から沢山の観光客がお見えになっていて、京都でもホテルが
非常に取り難い状態にありますのでご注意下さい
〈禅林 恭山啓純〉

第139号 平成28年 正月号

慧光139号

「後の半截」をどう生きるのか
一峰 小住 義紹
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる 2
宗禅寺副住 高井和正
禅と共に歩んだ先人 出光佐三 第八話
一峰 小住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 啓純

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「後の半截(のちのはんせつ)」をどう生きるのか

さて、「ありがとう」の対義語は何だかご存知ですか?先日インターネットを閲覧しておりましたらそういう記事を見つけました。はて何だろうとしばし考えましたが思い当りません。それで記事を読んでみますと、「ありがとう」は漢字を当てれば「有り難う」となり「有り難し」という事である。「有り難し」とは有るのが難しい事、つまりめったに無い事と考えられる。だから「ありがとう」の対義語は「あたりまえ」なのだ。---という事でした。

私も齢は四十台中ばを過ぎ後半生に入って久しいのですが、年々時が経つのが速くなっていくのを感じます。ついこのあいだ新年を迎えたと思っていたのに今日は「慧光」の正月号の原稿を書いている。 そんな感じです。そのあわただしい日常に埋没し、日常の大部分を「あたりまえ」ですませてしまっている事に気付きます。日常と書きましたが、この言葉もクセ者です。日々の生活の大部分を日常というものに入れてしまい、結果いろいろな事を「あたりまえ」にしてしまっているのではないか?と思うのです。でも「日常」と「あたりまえ」は全然別の事です。日常を健やかに過ごせるならばそれは「有り難い」事です。災害等の報道に接した時には、「有り難い」と思いますがすぐに忘れてしまいます。

せっかく頂いたこの命、人生を豊かなものにするのは他ならぬ自分自身です。その限りある命の中で「あたりまえ」を増やしていく事は、自らで自らの命を薄めてしまっているのではないでしょうか?事に当って「ありがとう」という気持ちで臨むからこそ稔り(みのり)ある豊かな人生を送れるのではないでしょうか?

中国には「人を看るのは只だ後の半截を看よ」(ひとをみるのはただのちのはんせつをみよ)という古いことわざがあります。日々が加速度的に過ぎ去っていく後半生ですが、これからが自分の人生を決めるのだとの思いで、「あたりまえ」のとらえ方で日々を過ごさない様、自らを見つめ直してみてはいかがでしょう。
(一峰 小住 義紹〉

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その2

衆生(しゅじょう)本来仏(ほとけ)なり
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)
※衆生(しゅじよう)―この世の生きとし生けるすべての生き物のこと
「この世の全ての生き物は本来、仏様なのである」
先号より「坐禅和讃」というお経を読み始めました。その冒頭は力強い言葉、命あるもの仏であると始まります。ここで言う仏とはどういう存在なのでしょうか?

佛(仏) という字
仏という字をあてがったのには諸説あるようですが、漢字には一文字だけでもそれぞれ意味があります。戒名を付ける時も一字一宇の意味を考えてつけるのですが、そもそもほとけという字には佛と仏、二種類あります。仏は佛の簡略体になるわけですが、中国では佛の直接表現することへの畏敬の念から仏のほうが多く使われ、日本では直接的に表現をしないと失礼にあたるから佛の字を使う場合があります。建長寺の坐禅堂は大徹堂といいますが、日本の坐禅堂の多くは選佛堂(場)とも呼ばれています。選佛堂の場合、旧字の佛の文字が使われることが多いようです。

二つのほとけの字は共に、にんべんの字です。ご存じの通りにんべんは人間の動作や行動に関わる字に使われます。ムも弗も否定を表現している字で、例えば払うは手を用いて拒否をすることであり、りっしんべんの悌という字は心が晴れないという意味の字です。つまり、仏と佛にはどちらも人をはらう、ほとけというのは人の性(さが)を否定した人間ということになります。

人の性より仏の性
仏教の世界で仏性(ぶっしよう)という言葉があります。文字通り仏の性(さが)ですが、仏性とは我々に本来備わっている他者を思いやる心、清浄な心のことです。例えば、電車の座席に座っている時、お年寄りゃ体の不自由な方が乗ってきた場合、「席を譲ろうかな?」と多くの方が心の中で、感じるはずです。実際に行動に移すかどうかは別として、そう思う心が我々にはちゃんとあるはずです。真っ直ぐに歩んでいる人はもちろん、人の性に負けて罪を犯してしまった悪人であっても、常に仏になれる心を持っているのです。それは言い換えるならば、すべての人間は今ここに生きる意義があるということであり、だからこそ全ての命は尊い存在なのであるということではないでしょうか。

命あることの真の素晴らしさに目覚めた存庄が仏様であると言えるかも知れません。
(宗禅寺 副住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 出光佐三(いでみつさぞう)第八話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、戦前・戦中・戦後の日本の石油流通を支え、この国の発展に尽力した、今に続く「出光興産」の創業者である「出光佐三」の八回目をお話したいと思います。

仙崖義梵(せんがい ぎぼん)
「日章丸事件」を乗り切った出光興産は莫大な利益を上げました。それは消費者にも還元され、安価に石油製品を手にできる様になったのです。また副産物もありました。自前の石油精錬所を持たない出光興産は悲願であったそれを徳山に建設する運びとなりました。問題はその資金です。日本の銀行はその額が巨大な事と、自己資産の少い出光に融資しようとしませんでした。そこで佐三は米国へ行き「バンクオブアメリカ」という米国最大の銀行に融資を申し込みました。話がトントン拍子で決まったのは、やはり「日章丸事件」で米国にも出光興産の評判が伝わっていた事が大きかったのです。

それからも様々な困難を乗り越えながら日本の発展と同様に出光興産は拡大を続けました。そのさなか昭和五十六年、佐三は九十五歳の人生を終えました。

さて、佐三の人生を語る事において仙崖和尚への傾倒は外せないでしょう。福岡での高校生時代、古物屋で見かけた仙崖和尚の「指月布袋」という墨跡(ぼくせき)(臨済宗の老師が表した書き絵はこう呼ばれます)に一目惚れした佐三は、父にねだって手に入れます。商人として軌道に乗ってからはその収集熱も高まり、そのコレクションは膨大なものとなりました。

仙崖和尚は僧名を仙崖義梵といい、江戸時代の高僧です。博多の聖福寺で長く住持を勤め、大くの墨跡をのこしました。それらは酒脱(しゃだつ)、瓢逸(ひょういつ)、天衣無縫(てんいむほう)、自由闊達(じゆうかったつ)といえるものでした。

独自の方法で道を切り開く佐三にはやはり敵が多く、四面楚歌になる事も多々ありました。ひるむ心を世俗に媚びぬ高僧の墨跡を見て励まされる事もあったでしょう。むきになる自分を諫め、物事に囚われぬのびのびとした仙崖和尚の世界に触れ、屈託を解き放った事もあったでしょう。時空を越えて仙崖和尚は佐三の師だったのです。

仙崖和尚は多くの逸話を持ち、またその墨跡の持つ独特の世界により、多くの人に敬愛されている、禅僧です。東京丸の内にある出光美術館で多くの作品が展示されていますから、良かったら見学されてはいかがでしょう。
(一峰 小住 義紹)

禅寺雑記帳

平成二十八年の新年となりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

・今年は我が臨済宗にとって大きな節目の年になります。開祖、臨済義玄禅師と日本臨済宗中興の祖、白隠慧鶴禅師のそれぞれ千百五十年、二百五十年の大遠諱(おんき)法要、およびそれに関連したさまざまな行事が行われるのです。法要は僧侶しか参加できませんが、十月二十九日、三十日に建長寺と円覚寺で行われる坐禅会は一般の方が参加できる千人規模のものです。東京国立博物館では特別展『禅―心をかたちに!』(十月十八日~十一月二十七日)も開催されます。他にも一般の皆様向けに記念のシンポジウムや六本木
ヒルズでのイベントも企画されています。

臨済禅 黄檗禅 公式サイト 臨黄ネット

詳細はこのコーナーで随時お知らせする予定ですが、臨済宗公式ホームぺージ上では早く詳しい情報、が確認出来ると思います。二〇十六年の今ここに生きているから巡り合えた機会です。是非何かひとつでもご参加下さい。次回の遠諱は五十年後ですよ。

この記念事業のポスターの喜は、女性の書家、金澤翔子氏によるものです。「ダウン症の天才書家」として有名な方です。書家の母親は、彼女が五歳のとき、友達を作るきっかけになればと考えて書道教室を開き、その時から指導を始めました。書道だけでなく、料理、掃除、洗濯など、生きていく上で必要な事を、我慢強く見守りながら見につくまで覚えさせたのです。般若心経の二百七十六文字の全てを覚えていて、見ないで書けるそうです。

毎年建長寺でも個展を開催されています。その書は力強く、生命力にあふれでいます。書を見て涙する人が沢山います。「出生前診断」によって生命の選別、がなされる現在、彼女の存在は沢山のことを教えてくれます。
(禅林 啓純)

第138号 平成27年 秋彼岸号

慧光138号

千二百年のお彼岸
禅林 啓純
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる 1
宗禅寺副住 高井和正
禅と共に歩んだ先人 出光佐三 第七話
一峰 副住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 啓純

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千二百年のお彼岸

千五百四十九年に初のキリスト教宣教師として日本にやってきたフランシスコザビエルは日本人へのキリスト教布教の戦略レポートをローマへ送っています。そこには当時の日本人の素晴らしさが沢山記されています。いくつかを要約します。「日本人は、自分が出会ったきた国々の中で最も優れている民族である」「日本人は悪意がなくて親しみやすく善良である」「多くの町民は読み書きが出来る」「名誉心が強く、他の何よりも名誉を重んじる」「多くの人は貧乏だが、貧乏は不名誉な事では無いと考え、堂々としている」「泥棒がいない」「太陽に誓うとして嘘は付かない」「社交性が高く知識欲が旺盛である」

こうしてみると四百六十六年も前の日本は、すでに素晴らしい道徳の国だったのがわかります。経済的には現代のほうがずっと豊かでしょうが、精神性、道徳の面では大きく後退してしまっているように感じます。

当時の日本人が高い道徳を持っていた理由の一つは、神や仏、先祖の霊といった目に見えないものを大切にしていたからでしょう。自然の恩恵で生活が出来る反面、その脅威に翻弄される事も同時にある中で、お祭りやお正月、お盆、お彼岸といった目にみえないものと向き合う節目の行事を大切につとめる中で、お蔭様という謙虚さと道徳心が自然と身についたのではないでしょうか。

日本で最初にお彼岸の法要が行われたのは八百六年(千二百九年前)だそうです。以来私たちの先祖はずうっと、お彼岸を大事にしてきました。

今年の秋のお彼岸はシルバーウィーク、五連休になり海外や国内の旅行に出かける方も多いと思いますが、千二百年にわたって遺伝子に刷り込まれてきた「お彼岸」を、日本人として大事にして頂きたいと思います。良いお彼岸を過ごしまう
(禅林 啓純)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その1

平成二十九年は白隠禅師が亡くなられてから二百五十年という節目の年になります。臨済宗の名にもなった臨済禅師は来年で没後千百五十年、臨済宗では十四の各本山が協力をして、様々な行事を開催する予定です、来年の十月二十九日、三十日に鎌倉にて千人規模の大坐禅会が開催される予定です。その節目を迎えるにあたり、今号より白隠禅師の遣された「坐禅和讃」というお経を一緒に読んで参りたいと思います。

白隠慧鶴禅師(正宗国師)(はくいんえかくぜんじ)
江戸時代の禅僧で静岡県は沼津、原の出身。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謡われ、私が過ごした三島の龍澤寺の開山様でもあります。沼津・三島地域においてその知名度はずば抜けており地元の酒造会が「白隠正宗」という地酒を販売しているほどで、我々臨済宗の中でも「臨済宗中興の祖」とされているほどの高僧です。

禅の歴史を遡っていくと、とある一つの説話に辿り着きます。

ある日、お釈迦様が無言で弟子たちに向かって金色の芯を高くかざし、その意を問うたのです。説法なので何かお言葉を期待していたお弟子さんたちは一同困惑致しましたが、その中で魔訶迦葉おひとりのみが高くかざされたその芯を見て、にっこりと微笑みました。
ここに仏教における禅の原点があります。

禅の教えは以心伝心、心を以って心に伝えるものとされています。それは文字や言葉によって誰かから教えられるものではなく、自らが工夫をして実践をすることによって自らの心に安心を獲得することが肝要になります。

白隠禅師が中興の祖とされる所以は修行者の工夫の拠り所としての公案を絶対的な安心を得る方便として体系的に組織化させた点にあります。つまり、禅の志を持った修行者が誰でも同じように公案に向かって行けば悟りを得ることができる体系を作ってくださったということです。

白隠禅師は妙心寺派の和尚でありましたが、本山の違いに限らず、この体系は現在臨済宗のすべての修行道場の指導者である師家に受け継がれ、白隠禅師の遺された公案体系によってすべての修行者が禅を学んでいます。禅の指導者である師家は修行者の器量に応じて、公案を用いて修行者を安心の境地に至らしめようと道を示します。二十一世紀を迎えた今日も、禅の道場では昼夜を問わず禅修行者達は公案に参じています。
(宗禅寺 副住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 出光佐三(いでみつさぞう)第七話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、戦前・戦中・戦後の日本の石油流通を支え、この国の発展に尽力した、今に続く「出光興産」の創業者である「出光佐三」の七回目をお話したいと思います。

日章丸事件3(にっしょうまるじけん)
イランからの石油を数々の難関を乗り越えて無事日本〈届けた日章丸とその乗組員でしたが、案の上、英国企業から積み荷差し押さえの請求がだされ、早速帰還当日の午後から裁判が始まりました。イランの石油の権利は全てこちらにあると主張する英国企業に対し、独立国家であるイランには当然その国で産出された資源を処分する権利があると主張する出光は真向から対立しました。予定通り閉廷した後、佐三は荷揚げを急ぐ日章丸へ行き、乗組員を前に、こう話しました。

(すこし長いのですが紹介します。)
「日本は資源が貧困で、人口も急増している。産業の合理化は急務中の急務だ。イランの大油田と直結し燃料国策を確立して、産業の合理化を助ける。これは天与の絶好の機会であり、国民の自由である。イラン石油の輸入は堂々天下の公道を闊歩(かっぽ)するもので、天下に何ひとつはばかることもない。ただ敗戦の傷の癒えぬ日本は正義の主張さえ遠慮がちであるが、いま言った理由から、日本国民として俯仰(ふぎょう)天地に愧じ(はじ)ざることを誓うものである。この問題が提訴されたことは、天下にわれわれの主張を表する機会を与えられたわけで、むしろ悦ばなければならない。」

GHQの戦後処理も終り、独立国家としての道を歩みはじめた日本でしたが、敗戦のショックに未だあえいでいる状態でした。巷には今日の食事にもありつけぬ飢えた人々があふれ、粗末なあばら家同然の家で風雨をしのぎ、粗末な衣服をまとい、死に物狂いで働くしかない状態で、日本はどうなるのかという不安が国中に蔓延(まんえん)していました。そういった中でのこのニュースは日本の国民に大きな勇気を与えました。英国という大国の威圧に臆する事なく正義を主張する姿に多くの人が日本人としての誇りを取り戻す想いを抱いたのです。

裁判は出光側の全面勝利で終りました。イランとの取引が続けられる事になった出光は早速第二便をイランに送ります。ここで日章丸は熱狂的に迎えられます。英国を畏れず、共に戦ってくれた同志として、窮地に手を差し伸べてくれた恩人として最大級の待遇を受けたのでした。この日章丸事件を通じ、日本は信義を重んじる固としてイランの人々に強く、深く印象付けられたのです。
(一峰 副住 義紹)

禅寺雑記帳

■今夏は戦後七十年の節目でした。この戦争で亡くなられた全ての方のご冥福をお祈りいたします。合掌。

■戦争が終わって十年後の昭和三十年にインドネシアのバンドンで、第一回アジア・アフリカ会議、通称バンドン会議が行われました。第二次大戦後に欧米の植民地支配から独立したアジアとアフリカの二十九の国が参加したこの会議上で、日本は参加した国々がら賞賛されたのだそうです。

■「日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。それにあの時出した『大東亜共同宣言』がよかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。『アジア民族のための日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く』と、大変なもて方であった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ」と、外務大臣代理で
出席した加瀬俊一氏はその様子を語ってます。この会議には中国の周恩来も出席していました。

■今年四月にはこの会議から六十周年の記念会議も開催されたのですが、第一回のこの話は全く報道されませんでした。この事実を凍結して、首相がただ反省を口にしてそれのみが報道されたら、やはり日本が悪かったから戦争がおきた、と結論づけられてしまいます。「日本のおかげで」の話は、戦死した方々にとって、ご遺族にとってそして我々日本人皆にとって、何よりの慰みになる話です。こうした事実もある事を、もっと報道して欲しいと思います。

■夏休み、息子達と川遊びをしました。私が子供の頃は毎日のように皆が川で遊んだものですが羽村市では現在子供だけで川へ行つてはいけないとのお達しがあるそうで、大人が一緒でないと行けないのです。その分ゲーム機で安全に(?)遊ぶのでしょう。川で遊ぶことは沢山あるので残念に思います。小さい魚でもつかんだ時には思いがけない躍動感があり、生命の尊さ、重さを知ることが出来ます。今日、簡単に人の命を奪ってしまう事件が後を絶ちませんが、川遊びや原っぱでの虫取りが出来ず、ゲーム上のみで命のやりとりをしている事にその一因があるといったら言い過ぎでしょうか。

■川のせせらぎ、鳥の声、炎天下でも涼しく吹き渡る風、真っ青な空、もくもく白い入道雲、オレンジに燃える夕焼け、にわかにかき曇り降り出す夕立等、こういう素晴らしい自然の中で遊び、感じるからこそ、故郷への思い、地域愛が生まれるのではないかと思います。大人の事情で子供にしか無い感性で川から学ぶ素晴らしい機会を奪ってしまっているのは本当に残念です。
(禅林 啓純)

第137号 平成27年 盂蘭盆号

慧光137号

戦没者も帰ってくる
禅福 泰文
父母恩重経を読んでみる 13
宗禅寺副住 高井和正
禅と共に歩んだ先人 出光佐三 第六話
一峰 副住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 啓純

画像をクリックするとPDFをご覧いただけます

戦没者も帰ってくる

毎年八月十五日の旧盆が近づくと、一種独特の嫌な気分にさせられます。首相
が靖国神社に参拝するかどうかとか、先の戦争の反省と謝罪はどうするのか、といった報道が毎年繰り返されるからです。特に今年は戦後七十年(特別な意味があるとは思えませんが)ということで、中国や韓国の味方としか思えない日本のマスコミが、一層自虐気分を煽りたてるのは目に見えていますので、例年にも増して嫌な気分にさせられるのは必定と、今(六月中旬)から覚悟はしています。

ところで、日本ではお盆には亡くなった人が自宅に帰ってくることになっています(昔は正月もそうでした)。この亡くなった人が帰ってくるという話は、本来仏教とは関係のない話ですが、このお伽話のような習俗が廃れずに残っているということは、多くの日本人がこの話を
支持しているということになります。ということは、大東亜戦争(太平洋戦争ではありません)で亡くなった三百万の人も、それぞれの家に帰ってくるということです。

お盆に先祖が帰ってくるという習慣は、残された家族が年に一度くらいは亡くなった人に会いたいという気持ちと、亡くなった人がわが家に帰って来たいという気持ちが、合わさって出来あがったものでしょう。生きている自分と亡くなった愛しい人と、いつまでもつながっていたいというお互いの思いが、造りあげた物語でしょう。思えば、美しい物語です。

それでは今、戦争で亡くなった人たちは、まず帰ってくるべき家がありますか。
待っていてくれる家族(子孫)はいますか。かろうじて子孫がいたとして、彼等は歓迎してくれますか。家のなかに先祖の居場所はありますか。居心地は?

若し不確かで悪意のある言説を軽々しく信じ、先祖を尊敬するどころか、過去の行いを糾弾し、先祖に反省と謝罪を迫るといったようなことがこの日本で行われるとしたら、お盆の美しい習慣は消滅し、同時に国の未来も失われるでしょう。こんな国に先祖は帰って来ません。
(禅福 泰文)

父母恩重経を読んでみる 第十三話

仏教とお経
仏教は紀元前五百年ごろ、二千五百年前に釈尊が教えを広めたことから始まっています。釈尊自身は、「人間はなぜ生きるのか」ということを悩まれ、「よりよい人生を過ごすために」出家をするわけですが、御修行の果てに悟りを開かれ、数多くの教えを遺されました。

お経とは釈尊の遺された教えを文字に記したものですが、釈尊自身は布教をするにあたり、その教えのすべてを説法という形で残され、文字として残すことはしませんでした。

釈尊がお亡くなりになった後に、その教えを伝えていこうというお弟子さんたちの意志もあり、編集の会議が開かれました。この会議は結集(けつじゅう)と呼ばれています。

結集によってお経が成立すると写経され、インドのみならずミャンマーやタイ、朝鮮とアジア地域へとチベット、中国、伝播されてゆき、その時代時代の現地の教えと人々の心が刻まれていきました。

大乗仏教と上座部仏教
日本への仏教の伝来はインドからチベット、中国、朝鮮半島を経ています。東南アジア地域の仏教を上座部仏教と呼び、日本や東アジアの国々の仏教は大衆仏教と呼ばれています。その違いを簡単に記すと、上座部は釈尊以来の仏教の姿を忠実に守る仏教で、出家した人のみが救われる仏教です。大乗仏教は大乗の名の通り、大きな乗り物に例えられ、実際に出家をしなくても仏教の信仰をすることによって在家の身でも救われる仏教です。
経典自体も大乗と上座部では異なるものが伝わりました。

父母恩重経は大乗仏教の経典です。中国で成立したと考えられているお経です
が、日本においては古くは奈良時代に伝播していたとされ、正倉院の蔵の中にその存在を確認することができるようです。坐禅や托鉢など直接的に仏道修行をするよりも、日頃から親孝行に努めることを奨励しています。

親孝行というと堅苦しく聞こえるかもしれませんが、要は自分の周囲にある絆と向き合ってみましょうということではないでしょうか。一人の人間が生涯を全うするということは、あらゆる命との関わり合いがあるということです。そしてその関わり合いを素晴らしく感じるかどうかによって人生の素晴らしさが変わってくるのではないでしょうか。

長らく父母思重経を読んできましたが、今回が最後になります。親子の姿を通じて、命の素晴らしさと自分自身の存在の素晴らしさを感じでいただけたら、有り難く思います。
(宗禅寺副住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 出光佐三(いでみつさぞう)第六話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、戦前・戦中・戦後の日本の石油流通を支え、この国の発展に尽力した、今に続く「出光興産」の創業者である「出光佐三」の六回目をお話したいと思います。

日章丸事件2(にっしょうまるじけん)
昭和二十八年、英国により石油輸出を封じられていたイランから、日本への輸入を実現する事を目指した佐三は、慎重に事を進めました。この計画が明るみになれば、英国企業・政府の妨害に逢うのは確実で、実現不可能になる事は明白だったからです。いざ日本よりタンカーを出港させるにあたっても行先はサウジアラピアだとして届けてました。ちなみにこのタンカーの名前が「日章丸」で、出光興産の自社船でした。

本当の目的地は船長以下数名しか知りませんでした。それだけ情報の漏洩を恐れたのです。インド洋に出て初めて全員に行先を告げると皆驚きましたが、佐三があらかじめ船長に渡していた檄文(げきぶん)に触れ、出光興産独特ともいえる団結心をもって事にあたる体制が整いました。これはやはり、佐三がいかに社員を偶してきたか、会社を運営してきたかという実績にかかる事であり、「出光興産」という会社だからこそ、なしとげられた事なのだろうと思われます。

難関を乗り越えながらも、無事イランの石油積み出し港、アバダンに到着した日章丸の件は、すぐにニュースとして世界中に伝えられました。このニュースは驚きをもって迎えられるのですが、そこには英国企業・政府の反応に対しての危倶がありました。英国側が黙って見ているはずも無く、日章丸、が無事日本に帰還できるのか、帰還できたとして、差し押さえに逢わずに荷受(にうけ)できるのかといった畏れを皆抱いたのです。

日章丸は英国軍艦にみつからない様に一切の交信を絶ち、急いでペルシャ湾を通り抜けました。多くの船が通るマラッカ海峡は避け、拿捕(だぼ)を間逃れました。帰港地は広島の徳山と発表されましたが、川崎に帰港しました。英国側はこの石油の差し押さえを請求してきました。

しかし佐三は手を打っていました。あらかじめ裁判所に「英国企業が提訴してきても、同社だけの言い分を聞いて差し押さえの裁定を出さないようにしてほしい。こちらの言い分も聞いてほしい」という内容の上申書を提出していたのです。

さらに川崎に帰って来たのは土曜日、相手が差し押さえの請求をしても、両者の口頭弁論があれば閉廷して、翌日はお休みです。その間に十分積荷の陸揚げをおえる事ができたのでした。
以下次号
(一峰 副住 義紹)

禅寺雑記帳

■五十年ごとに行われる祖師の法要を、遠諱(おんき)といいます。臨済宗の始祖、臨済禅師が亡くなられて千百五十年、また日本臨済宗中興の祖、白隠禅師の二百五十年となるのをうけ、来年全ての臨済宗と黄檗宗合同で遠諱大法要が行われます。その前企画として、去る五月三十一日に六本木ヒルズ四十九階にて記念イベント『禅ってなに?』が行われました。

■「もしもお二人が現代に生きておられたら、いったいどのように禅を伝えるだろうか」というコンセプトから、東京全体を一望出来る地上二百メートルの場所で講演、坐禅、写経、禅僧との一対一の対話などを催したのです。

■実はそのまさに前晩に大きな地震があり、このビルのエレベーターが停止して二百人あまりが降りられず立往生したというニュースが大きく取り上げられたのですが、その影響もなく実に大勢の方がお見えになりました。若い方の比率も結構高く、これは人口の多い東京のど真ん中六本木でやったからこそだと思います。参加された方々は概ね満足して帰られた様子、今後もこのような機会を設けていこうと話があがっていました。

■来年は本番の年、十月二十九日〜三十日に行われる鎌倉での千人の坐禅会は一般の方が誰でも参加出来ます。また様々な講演なども行われますので、興味のある方は臨済宗の公式ホームページをご覧下さい。

■お正月号で『ぶっちゃけ寺』というテレビ朝日のお坊さんバラエティ番組を紹介しました。あの時は深夜の放送でしたが、好評なのでしょう、四月からゴールデンタイムに昇格し、毎週月曜日の十九時から一時間の番組として放送されています。なかなか面白いし、意外とためになります。お勧めです。

■毎年恒例の『羽村灯篭流し』が、八月一日(土)十八時三十分から行われます。
場所は羽村堰下の河原です。お寺でお盆にやっているお施餓鬼の法要を河原でやり、読経、御詠歌の奉詠の中灯篭を流します。先祖の供養、家内安全、青少年の健全育成、世界平和などを祈念する行事です。夏の夕暮れ、涼しい風に吹かれて沢山の灯篭が流れていく様子はなんとも雰囲気があります。本当に大勢の方の協力によって運営されており、大規模な行事です。未だ参加された事が無い方は、是非一度足を運んでみて下さい。当日参加出来なくても、事前に申し込んでおけば当日に故人の戒名などを書いた灯篭を流して供養して頂けます。灯篭は一基千円です。何卒ご協力をお願いいたします。
詳細は菩提寺か、実行委員さんにお尋ね下さい。なお雨天の場合は翌二日になります。

(禅林 啓純)