慧光(えこう)

「慧光」は、東京都羽村市の臨済宗のお寺(一峰院、禅福寺、禅林寺、宗禅寺)で設立された「羽村臨済会」の季刊誌です。

第143号 平成29年 正月

慧光143号

道はちかきにあり
禅林恭山
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺副住 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 小住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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道はちかきにあり

長く謹慎させられていたある武士が、謹慎中に書物を通して禅に興味を待ちました。謹慎が解けた武士は、早速有名な禅僧の元を紡ねます。
「漢籍に『道は爾(ちか)きにあり、しかるにこれを遠きに求む』とある。ところで、『禅の道』とは如何なるものか」と問うのです。すると禅僧は何も言わずに武士.を突き飛ばし、座っていた座布団を手前にさっと引きました。パンザイのような姿で後ろへ倒れる武十を残し、禅僧は自室へ戻ってしまいます。武士は屈辱にに刀を抜こうとしますが、禅僧の弟子の修行僧がなだめ、別室で「まあお茶をどうぞ」と進めます。
武士が気を取り直して手を伸ばすと、修行僧が湯呑をぱっと倒してしまうのです。お茶は飛び散り、武士の着物はピシヨピシヨです。武士は、
「師匠が師匠なら、弟子も弟子だ。ともに成敗してくれよう」と激怒します。その時、弟子が、
「こういう時、貴殿の承知しておられる『道』ではどのようにふるまいますか」と尋ねるのです。 激昂のあまり武士は一言も答えられません。すると修行僧は、
「わが『禅の道』ではこのようにいたします。」といって、袂から手拭いを出して丁寧に武士の着物を拭きはじめたのです。
ここで武士はハッと我にかえり、あらためて禅僧に教えを乞い、ついには居士として修行を完成することになるのです。
この武士は第二次伊藤博文内閣の外務大臣をを務めた陸奥宗光の父で、紀州藩士の伊達千広という方、禅僧は越渓守謙(えっけいしゅけん)、妙心寺僧堂を開いた方です。

まさかと思っていたトランプ大統領が誕生し、イギリスがEU離脱を表明、韓国では大統領を弾劾する大規模デモ、世界中が不安定でこの先どうなるかと、なんとも不安にかられます。しかし世界がどうであれ、自分がしっかりしていればいいのです。国の前の一つ一つの事に、しっかり向き合っていきましょう。道はいつでも足元にあるのです.
(禅林恭山)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その6

闇路(やみじ)に闇路(やみじ)を踏み添えていつか生死(しょうじ)を離(はな)るべき
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

◆意訳
「長い長い真っ暗闇の迷いの道を歩んでこそ、いつかは迷い苦しみの闇から抜けだせるのです」

生死を離れる
前回は六道が空想的なものではなく、今を生きている我々の心の中にあるものだというお話しでした。我々の心は常に悩みや迷いを抱えているものです。
仏教においては生死、つまり生きることと死ぬことは迷いを表わす典型的な言葉として用いられます。その迷いの中身は生きることは良いことで死ぬことは不幸なことという二元的な物の見方です。自分の好きな上司と嫌いな上司。自分の好きな仕事と嫌いな仕事。理想の自分と今の自分。人生では同級生や身近な人を自分と比較してしまい、気落ちすることもあったりするのではないでしょうか。

不自然(ふしぜん)不思悪(ふしあく)
ふしぜんふしあく。善く思わず、悪く思わずという言葉があります。良いことや得したと思ったことが起こってもそれを良いことだと受け止めず、また、嫌なことや損したことがあってもそれを悪いことだと受け止めないという言葉です。

さようならという日本語
さようならという日本の挨拶があります。一般的には普段は「失礼致します」とか、「ありがとうございました」とか「お世話になりました」という言葉を使ってお別れをすることが多いと思います。仲の良い友人であれば「じゃあ、またね」で済ますこともあるでしょう。
さようならという言葉は重大なお別れの時に使われることが多いと思います。
さようならの元の言葉は「然様ならば、左様ならば」。
つまり、「そうであるならは」という言葉です。もっと言うと「そうならなければならないのであれば」ということでしょうか。お別れは時に寂しく、悲しく、嫌なことではありますが、そのお別れに対して背を向けてしまうのではなく、別れなければならない事実を真正面から受け止めている言楽に聞こえます。

生死を離れるということも同じことではないでしょうか。目の前の自分の悩みや迷いを必要以上に悪く受け止めずに、前向きな気持ちで迷いや悩みに向き合い、時にそこへ自ら飛び込んでいくことが大事なのではないでしょうか。
向き合うからこそ、納得できるのではないかと、白隠さんがおっしゃっているように思えるのです。
(宗禅寺 福住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第三話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人たちを紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖(はいせい)」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。

貞門派(ていもんは)
前回、俳諧の成り立ちと、それ以後の発展をお話ししましたが、その発展の基礎を築いたといえるのが「松永貞徳」を祖とする「貞門派」といえます。芭蕉の俳諧における師となります北村季吟も貞門派の一人でしたので、芭蕉の俳句の入り口は貞門派だったのでした。その特徴は「言葉あそび」といわれるもので、その芸術性には限界があるといわざるを得ないものでした。

談林派(だんりんは)
貞門派の俳諧から離れ、その世界をさらに大きく発展させたのが「西山宗因」を祖とする「談林派」でした。宗因は言葉遊戯を主とする貞門派の古風を嫌ってきまり事を簡略化し、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特徴とする作風を完成させました。これにより俳諧の持つ世界観が拡がり、活発性も与えられて同時に芸術的可能性を大きく高めました。
多くの支持を集める事となった談林派は貞門派に替って俳諧の主流派となりました。江戸に出てきて間もない頃の芭蕉が西山宗因に会い、大きな影響を受け、後、作風も談林派風になります。後に芭蕉は「上に宗因なくんば、我々の俳諧今以(いまもっ)て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし、宗因はこの道の中興開山なり」と述べています。

薫風
西山宗因を中心とした談林派の影響のもと、俳諧の道を歩んでいた芭蕉でしたが、次第に談林派の持つ軽薄性に表現的限界を感じるようになります。そんな時に転居先の深川で、仏項(ぶっちょう)禅師という高僧と運命的な出会いをします。
茨城鹿島の根本寺(こんぽんじ)の住職であった仏項禅師は、たまたま訴訟事のために深川に逗留していたのでした。
その人柄に感銘を受けた芭蕉は禅師のもとに参禅を重ねました。二年足らずの交流でしたが、その熱心さと禅機(禅的素質)が認められ「ひとり開禅の法師」と呼んでもらえるまでになりました。「ひとりでも悟りの境地に到達できる人」といった意味でしょうか。その影響は明らかで、以後作風も変化を見せます。
芭蕉庵(芭蕉の住)で行われる句会で門人達と丁々発止のやりとりで作句が行われる様になりました。「俳諧は気先(きせん)を以て無分別に作るべし」と芭蕉は弟子たちに教えています。これは臨済禅の特徴である瞬発力の影響と思われます。
以下次号
(一峰 小柱 義紹)

禅寺雑記帳

◆年が明けました。年々、一年の経つのが加速度的に早くなっていくように感じます。明けたばかりの2017年ですが、ぼやぼやしているとあっという間に終わってしまうのは明白、「今年はこういう年にしよう」「今年はこれに力を入れて過ごしていこう」など、しっかり計画を立てて臨みたいものです。良い年にいたしましょう。

◆昨年は私たち臨済宗の祖、臨済禅師が亡くなられて1150年、また江戸時代に臨済宗を立て直した白隠禅師の250年の節目ということで、一年を通して様々な法要や行事、展示が開催されました。参加、ご協力頂きました皆様、本当にありがとうございました。

◆上野の国立博物館で開催された「禅ーこころをかたちに」展は質も量も素晴らしく、まさに50年に一度の臨済宗の集大成といえるものでした。お釈迦様からの2500年、臨済禅師からの1150年、日本に臨済宗が伝えられてからの800年、白隠禅師からの250年が連綿と繋がって今の日本の様々な文化、私たち日本人の暮らしがあることを理解できる展示でした。次の1200年の節目の時も今のように平和な日本であって欲しいものです。
その責任は今を生きる私たちにあります。

◆昨年放送されたNHKの大河ドラマ「真田丸」が大好きでした。最近の大河ドラマは途中で嫌になって見るのをやめてしまう事が多かったのですが、この作品は家族揃って一年間見続ける事が出来ました。お陰様で、あらためて歴史に興味を持つようになりました。

◆中世、羽村は青梅の勝沼城を拠点とした三田一族が治めていたのですが、戦国時代に条氏によって滅ぼされ、北条の家臣の大石氏が支配していました。羽村小学校のそばには大石遠江守(とおとうみのかみ)の館があったといわれる遠江坂(とおとうみざか)があります。

◆その北条氏も、豊臣秀吉の小田原攻めで滅ぼされるのですが、その戦いの際に八王子城を攻撃したのが、前田利家、上杉景勝、そしてあの真田昌幸(草刈正雄が演じた信繁の父)でした。この戦いにはきっと、羽村の人間も沢山参加したのではないでしょうか。この後、徳川家康が江戸に入り、人口が飛躍的に増える為、玉川上水が作られ、その要の地、羽村は徳川の領地になるのです。玉川上水の維持管理の為、羽村には毎年、幕府から莫大なお金がもたらされたそうです。

◆先にも述べた臨済宗中興の祖、白隠禅師には厳しい師匠がいました。道鏡慧端(どうきょうえたん)一般的には正授(しょうじゅ)老人として知られる方です。その指導がなければ白隠は生まれなかったのですが、その道鏡慧端の父は、真田信之(大泉洋が演じた信繁の兄)です。

◆歴史は決して他人事ではなく、全て繋がって今があるのですね。
(禅林 恭山)