慧光(えこう)

「慧光」は、東京都羽村市の臨済宗のお寺(一峰院、禅福寺、禅林寺、宗禅寺)で設立された「羽村臨済会」の季刊誌です。

第150号 平成30年 秋彼岸号

慧光150号

日本人は無宗教なのか?
宗禅寺 高井和正
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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日本人は無宗教なのか

日本人は無宗教であるとよくいわれます。
NHKの1996年の「全国県民意識調査』によれば、日本人の70%もの人々が「信仰を持たない」と回答したそうです。
都道府県別に見ると、地域によってばらつきがあり、沖縄は飛び抜けて高く、9割の人々が信仰を持たないと回答しています。逆に北陸や広島は「信仰をもっている」人が多い地域で、撞井では5割を超えます。
では、我々の住む東京はどうかと言えば、「信仰を持っている」と答えたのは27%という全国的に見ても少ない方になるそうです。
また、内閣府の平成26年度の若者への意識調査において、「宗教が日々の暮らしの中で拠り所となるかどうか」という質問に対し、「ならない」と答えた人は64%に対し、「なる」と答えた人は18%でした。
これらの数字だけ見れば、確かに日本人は無宗教なのかもしれません。ただ、本当にそうなのでしょうか?

日本人は無宗教である。この見方は、ある一つの視点からの見方に過ぎません。
それは外国人からの観点、つまり海外と日本とを比較しての見方です。

そもそも日本には「宗教」という日本語自体が存在していませんでした。幕末にペリーが来航してからアメリカとお付き合いをする過程で、英語のReligion(レリジョン=宗教)という一言葉を翻訳する必要に追られ、好余曲折を経て「宗教」という言葉が採用され、明治時代に広く使われるようになったそうです。
そういう意味では文字通り日本は無宗教な国だと言えます。しかし、ペリーが来るずっと以前からお伊勢参りも、祇園祭りも、彼岸会も念仏講もあったのは確かです。

秋のお彼岸のお中日は秋分の日という国民の祝日です。国民の祝日にはそれぞれ意義が設定されていて、秋分の日は「祖先を敬い、なくなった人々をしのぶ」とされています。お彼岸のお墓参りも初詣もお祭りのお神輿も除夜の鐘も宗教的行為かもしれませんが、それらを日本人は信仰とか宗教とは思っていないのです。

あえて言うなら、宗教という言葉を引っぱり出してわざわざ表現する必要がないほど、国民的な習慣として、生活の奥深くに根っこづいて溶け込んでいるものだと言えます。

心配なのは、「日本人は無宗教である」と、当の我々日本人自身が自ら思い込んでしまうことです。神社やお寺は日本人の心の形成と深く関わっているはずなのです。
(宗禅寺 高井和正)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その13

無念の念を念として歌うも舞うも法(のり)の声
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

◆意訳
「今の心を後に残さず生きてゆけば、何をしていても仏の安らかな心のままなり」

残念と無念
残念無念という言葉があります。非常に心残りである。悔しいという意味の言葉です。残念も無念も一般的な日本語では同じ意味として使われますが、仏教においては正反対の意味で使われる言葉です。

無念の念を念として。早口言葉のようでもありますが、普通の日本語で見てしまうと、悔しさを忘れずに心に留めておく、という意味に捉えることもできます。ただし仏教の場合は、無念は一切の後悔を残していない、つまり迷いから離れた心のことで、悟りの心を表わす言葉なのです。

無念の念を念として
明治時代、禅の僧侶で原坦山(はらたんざん)という方がおられました。坦山和尚、若い時分に仲間の鵠侶と諸国行脚をしていた時の話です。
坦山和尚、旅の道すがら橋の架かっていない川に差し掛かりました。普段であれば歩いて渡ることができそうな深さの川でありましたが、先日の雨の影響か水かさが増しており、渡るのを躊躇してしまう水の勢いです。さてどうしたものか。
周囲を見てみると、向じく困った顔で川を見つめて立ちつくしている一人のうら若い女性がおりました。やがてその女性は着物の裾をたくし上げ始めます。どうやら歩いて川を渡る決心をしたようです。やおら坦山和尚、女性に駆け寄り、背中におぶって川を渡してあげると申しました。女性を背負った坦山和尚は、川の向こう岸まで捜してあげることに成功し、お礼を言う女性を残してさっさと旅路を急いだのでした。心中穏やかでないのは仲間の舘侶です。女性と別れて二人で歩き始めてから、「修行中の僧侶が自ら女性を背負うとは何事か!」と、坦山和尚を答めます。すると、坦山和尚高笑いをしながら一言返しました。「なんだ。お前はまだあの女性と一緒にいたのか。俺はとっくにあの川原で下ろしてきたよ」と。

念という字は
念という漢字をよくみてみると、「今の心」と書きます。無念の念を念としてとは、今の心を後に残さないということです。我々には喜怒哀楽という感情があります。自分の身に起きた良いことも悪いことも、しっかりと受け止めつつも後に残さない、感情にこだわり過ぎないことが大事であると説かれています。過去にこだわりすぎると今を見失ってしまう。ということでしょうか。
(宗禅寺 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第十話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。


芭蕉の残した紀行文の中でも、最も著名なものといえるのが、この「おくのほそ道」です。前回に引き続きこの作中の句を観ていきたいと思います。

市振の関(いちふりのせき)(新潟県西部、現在の糸魚川市)を経て、越中(富山)、加賀(金澤)、越前(福井)から大垣(岐阜県大垣市)、に至る、この紀行文の最後を飾る道中となります。ここで芭蕉は多くの別れに直面します。

一家(ひとつや)に遊女もねたり萩の月
市振の関にて詠まれた句です。たまたま同じ宿にお伊勢参りの道中である遊女が泊まっていました。翌朝、出立にあた
り遊女から伊勢まで同道させて欲しいとお瀬いされました。やはり女性二人旅は当時の環境では心許なかったのでしょう。しかし、芭蕉は「お伊勢参りの道中の人はすでに天照大神に守られている」といって素気無く断ります。ここで遊女と別れます。

塚も動け我泣声(わがなくこえ)は秋の風
金沢で一笑(いっしょう)という俳人と会うのを楽しみにしていた芭蕉でしたが、着いてみれば前年の冬若くして亡くなっていたのでした。その一笑を追悼して詠んだ句です。君の墓前で私は秋風のようにすすり泣いているという悲惨な現実と「塚も動け」という激しい衝動の取り合わせが印象的な句となっています。ここでも芭蕉は別ここでは芭蕉は多くの別れにれを体験します。

今日(けふ)よりや書付(かきつけ)消さん笠の露

金沢を過ぎ、山中温泉に逗留していた芭蕉一行でしたが、同道の弟子曾良(そら)がお腹を壊し、それが良化しないため伊勢の長島の知り合いのもとへと先に旅立つ事になったのでした。その弟子との別れにあたり詠まれた句です。残された私の笠は涙に濡れた様に露がついている、これからは笠に書かれた「同道二人」の文字を消して行こうという意味です。

この様にそれまでの宇宙観的視点で詠まれていた句は無くなり、旅の佳境といっていいこの終盤において、また大きな
句読の転換がみられます。別れの句はまだあるのですが、また次号より観ていきたいと思います。

以下次号
(一峰 義紹)

禅寺雑記帳

◆暑さ寒さも彼岸まで、ようやく長く異常に暑かった平成最後の夏が終わりました。六月中に梅雨が明けてしまい、以後各地で史上最高気温を更新、お隣の青梅でも40度を超えたとニュースになりました。熱中症で救急搬送された方、亡くなられた方も過去最高を記録しました。

◆西日本を中心とした豪雨では220人もの方がなくなられ、土砂崩れや浸水による被害も甚大でした。この豪雨によ
り被災された皆様ならびにそのご家族の皆様に心よりお見舞い申し上げます。被災地の皆様のご無事と一日も早い復旧をお祈り申し上げます。明日は我が身、出来る範囲で支援をしていきたいものです。

◆何十年に一度の猛暑と言われましたが、このような暑さが今後は毎年のように続くのかもしれません。開催まであと2年を切った東京オリンピックがどうなることやら、とても心配です。暑さ対策としてサマータイム導入の意見も出ています
が、既に導入していたロシアは国民の不満からこれを廃止していますし、EUでも8割が廃止を訴えている制度であり、
時代に逆行している感が否めません。技術大国日本ですから、何か別の方法を見つけられないものかと思います。

◆今年になって、レスリング、ボクシング、アメリカンフットボール、体操などアマチュアスポーツの指導者や幹部によるパワハラや審判不正などの問題が相次いで表面化しました。徹躍的に問題を洗い出して、こちらも東京オリンピックまでに改善して欲しいものです。

◆サッカーワールドカップロシア大会では日本代表が活躍し、とても感動しましたが、その裏で、あの大会のテレビ放映権料を、日本が600億円も支払っていたというのです。そのうちの6割をNHKが、残り四割を民放4局で負拒したそうです。世界中の国々が同じような額を支払うのであれば納得もいきますが、日本だけが突出して高く、全体の三分の一近くを日本が支払ったというのです。NHKのお金は私たち国民の受信料ですから、納得のいく説明をして欲しいものです。

◆この事はほとんど報道されておらず、知らない方が多いようです。主催者のFIFAと各テレビ局の間には某広告代理屈が入っているといい、マスコミはこれを怒らせると広告を貰えなくなるから報道出来ないのでしょうか。こういう問題をこそ国会で明らかにして欲しいものですが、どうでも良い事を延々と操り返して、足を引っ張りあっているだけに見えます。

◆身体障害者の水増し雇用の問題では、手本を示すべき中央省庁が3460人もの水増しをしていた事が明らかになりました。色んな所で日本という国のタガが外れてしまっているようで、この先どうなるのかとても不安です。
(禅林恭山)