たぬき和尚通信

2016年9月14日 20:35

第4号 中国に行ってきました

9月の初めに臨済宗の旅行団の一員として中国に行って来ました。目的は臨済宗の開祖である臨済義玄禅師の没後1150年と白隠禅師没後250年が今年でありまして、その記念事業の一環として臨済禅師の澄霊塔にお参りすることでありました。訪中団の全員は臨済宗各派和尚、僧族合わせて187人という大旅行団でありました。主な目的地は臨済寺、柏林寺。別個に二祖慧可のお寺(二祖寺)、そして登封にある嵩山少林寺(達磨さんのお寺)でした。

昨年と今年で臨済禅師、白隠禅師を顕彰するたくさんの行事が行われました。昨年は京都の東福寺での臨済宗、黄檗宗をあげての大法要と修行道場50ヶ所あげての大接心。そして各地の専門道場を会場にした一般に向けての提唱と坐禅会。今年に入って京都と東京での大展覧会。さらに今回の訪中旅行。最後に鎌倉で関東周辺の禅僧による大法要と、一般の方を対象とした大坐禅会が今秋行われる予定で、この事業が終了となります。

今回の旅行記は、嵩山の少林寺の中の小庵のベンチに腰掛けながら書きました。少林寺の山中の少林薬局という名称の庵です。ここは静かで若い僧侶や老年の僧侶がそばにいます。それでは、ざっとこの旅行のことを報告し、若干の感想を記させていただきます。

9月6日に羽田を出発。北京に到着後、石家荘(せっかそう)に入りました。その晩は中国側の仏教協会による歓迎宴会が250人の規模で執り行われました。宴会は中日仏教協会の僧侶が行うもので、完全な素菜料理(精進料理)でありまして、品数20品以上、次から次へと運ばれる料理をお茶を飲みながらしっかりといただきました。ビールやお酒は一切ありません。挨拶が終わったあとは、ひたすら食べることに集中です。余計なものがないということは、これはこれでよいのかもしれません。

翌7日は、いよいよ記念法要です。バス6台、特別車数台に分乗して、正定(せいじょう)にある臨済寺に向かいます。今から40年前に訪れた時は、臨済禅師澄霊塔とみすぼらしい小屋が一つだけ。塀に囲まれた境内は畑、大地がむき出し。簡素・素朴・単純・あっさり、和尚さんも一人しかおられませんでした。正定の町も、町らしくなく、単なる農村そのものでした。今回は正定の町は城壁が造られ、その門から中へ入り、街並みも出来つつあり、臨済寺を柱にして町づくりが進行中でした。

寺に近づくと、赤いチョッキを着た男女の信者さんが合掌し、整列して私たちを迎えてくれました。寺の門には数十人の坊さんがやはり整列して私たちを迎えてくれました。中に入ると澄霊塔はすぐには見つかりません。それもその筈で、境内にはたくさんの樹木が生い茂り、高木、低木、花々で埋め尽くされています。それほど広くない境内にはたくさんの建物があり、すっかり立派なお寺になっていました。澄霊塔はその樹木に囲まれ、寺の中心にしっかりと立派に整えられて、荘厳に鎮座していました。昔は瓦が今にも落ちそうであり、雀が巣を作って出入りし、塔に生えた草草が何とも自然で、素朴で、臨済禅師が提唱した無為自然、一無位真人をその姿で表していました。

昔から今へと、この変わりようを後押ししてきたのが、我が臨済宗の力によるものであることを思うと、感無量のものがありました。

法要は澄霊塔を南に、照りつける午前の熱い日差しの中で、ほぼ一時間にわたって執り行われました。京都南禅寺の中村文峰管長の香語「高く……」のお声が天空に轟いています。中国側の法要のあと、日本は大悲呪一巻をあげ、1150年の報恩感謝の気持ちを表しました。法要後の記念撮影の準備の間、境内を三々五々散策、気品ある女性が中国茶の野点をしているのを円覚寺の朝比奈恵温和尚、正統院雪文庸和尚と共にいただき、しばし忘我の境を味わいました。

拜塔を終えて、石家荘のヒルトンホテルに戻り、今度は日本側主催の答礼昼食会です。今回は中国の関係者含めて、300人を超える方々が、これまたアルコールなしで本当の精進料理を20品以上いただきました。

昼食後は、ホテル目の前にある博物館で日中による記念墨蹟展の拝観、広い会場に中国の書家、僧に交じって、日本の馴染み深い老師方の墨蹟を見せていただくのも、これまた一興でした。博物館を出る階段で少しよろけ、円覚寺派の臨江寺の和尚さんに助けてもらいました。若干、あぶなかった。

その後は、「趙州の無字」の趙州和尚ゆかりの柏林寺見学です。これまた、40年前には人民公舎の農場広場で採りいれた麦が、所狭しと干されていました。昔来た折には、塔の前で長い木製のイスとテーブルでみんなでお茶をいただいていると、周囲の大勢の村人の方々が、ここでなんでこんなにたくさんの坊さんが来るのかと好奇の眼差しで見つめていたことがまざまざと思い出されます。

今ここにある柏林寺は七堂伽藍以上の建物群が広大で壮大な大地の中に、威風堂々とその姿を表出しています。あの柏林寺がこんなに立派に!! それも話しによると、香港の華僑の方の寄進で、10年の間に完成したとのこと。中国という国の不可思議さをずしりと思い知らされました。今回の旅行で一番驚き、感服したことは、この柏林寺の大復興でした。

建長寺の関係で中国には無錫(むしゃく)に朝陽寺が出来、その住職である無相和尚が祥符寺というディズニーランドのようなスーパー奇想天外なお寺をお造りになっていて、これも何ともいえず不思議な光景なのですが、この柏林寺の古式を踏まえた大寺院も、私たちにありがたい感動を与えてくれました。この素晴らしい環境のもとに、中国仏教が益々復興し、栄えていくことを心から祈願するものです。

9月9日、三日目になりました。中国の料理にも慣れてきて、登封(とふう)に向かいます。到着まで500キロ。予定では夜8時くらいの到着ということです。途中、邯鄲(かんたん)で昼食。そして、何と達磨さんの弟子、二祖慧可のお寺、二祖寺に拜塔。これは大雄宝殿のみが広大な畑の中にポツンと建っていました。なんと昔は大和塔があり、倒壊した後を掘ったら、二祖慧可の遺骨が出土し、遺骨は河南省の博物館に移されるも、骨容器は50センチ四方の石で造られていて、展示室に安置されていました。なんとも不思議感を覚えます。予定より早く5時半に登封のホテルに到着。建長寺円覚寺の合同訪中団は今は8人。二泊三日の行程で円覚寺の横田南嶺老師、そして副住職の和正和尚は帰山されました。この500キロの旅路の途中、何回かの休憩をしたものの、運転手さん一人で結構なスピードで走り抜けました。途中、黄河を渡るも、滔々たる川の流れを見ることができず、少しがっかり。それでも河北省の

北京から石家荘までの90分の新幹線。時速300キロには少し驚き、室外の景色があまり変わらないので、それほどのスピード感は感じない。乗り心地も悪くない。そして、石家荘から登封までの500キロのバス旅行。実はこれまた、とても爽快。すべて高速道路なので信号もない。車中でゆっくり本を読むことができた。ふと気がついたのだが、畑が終わると、あとは木々の緑が窓の外に果てしなく広がっている。40年前の風景は確か、黄土高原というか、樹木のない荒涼たるものであったが、その時とは違う。なにか平和だ。その平和、安らぎの原因は窓外の緑にあることに気付いた。40年前は、これから中国はどうなるのだろうかと、とても不安であった。今、この緑の景色を目にすると、そんな心配は全くなさそうだ。中国が緑の大地になりつつある。これならば黄河の水もいずれ戻ってくるだろうと思う。

少林寺を参拝し、上海から11日に無事帰国をした。

今回の中国旅行は、実は今までの私の中国旅行のおさらいでもあった。そこで見たものは、中国仏教の復興と中国大地の緑の復興であった。望むらくは、これから中国仏教が社会的存在になって、中国の人民を世界の人々を救う手立てにならんことを。中国は大きく変わった。40年を振り返って、しみじみとそう実感した。