慧光(えこう) (各タイトルをクリックすると詳細ページが表示されます)
「慧光」は、東京都羽村市の臨済宗のお寺(一峰院、禅福寺、禅林寺、宗禅寺)で設立された「羽村臨済会」の季刊誌です。
第163号 令和4年 正月号
「夫婦別姓」という危うさ
「正月は冥途の旅の一里塚」だそうですので、実際は目出たいよりも、死に近づいているわけです。これが自分のことだけなら大した問題ではないのですが、こと日本全体が冥途の旅にあるとすると、これはただ事ではありません。実は最近とみに祖国日本の存亡が心配になってきたのです。
世界情勢の分析は世に数多いる賢者たちに任せるとして、ここでは昨今目に付く身近な問題である「夫婦別姓」について、少々考えてみたいと思います。
世の中には結婚しても頑として自分の姓を変えたくないという人がいるようで、これを認めないのは古臭いとか、保守的であると糾弾されてしまうようです。姓を変えたくない理由は、元々の姓への愛着よりも、仕事上の都合のようです。
実は儒教社会であるお隣のシナや朝鮮半島の人は、結婚しても姓を変えません。ですから彼等は古来結婚しても夫婦別姓です。ちなみに同姓同志は結婚できません。これは何を意味するかと言うと、女姓は嫁いでも夫の一族には入れないということです。極論すれば、嫁は子どもを産むための道具であって、他の何ものでもないのです。夫が死んだ後、財産分与はあるのでしょうか。
「夫婦別姓」というのはこういうことです。決して新しい考え方なのではなく、封建的な一面もあるのてす。仕事に不便だという功利的な理由で以て、夫婦は同姓という極く普通の習慣を変えてしまっ
て良いのでしょうか。
それにお墓はどうするのですか。子どもはどうするのですか。夫婦・親子別姓では同じ墓には入れないでしょう。いや墓はいらない、散骨があるさと言うかも知れませんが、寺も墓もない不安定さ、心細さを一生背負って生きていかなければなりません。
この夫婦別姓の問題は近未来の日本に横たわる数々の問題の一つです。これらの心配ごとが杞憂に終わり、五十年後・百年後も日本が存在していることを、心から願っています。
(禅福 泰文)
~鎌倉流御詠歌を味わう5
【いろは和讃】
春の朝のさくら花
秋の夕(ゆうべ)のしらぎくと
四季おりおりの咲く花の
いろは匂えど散りぬるを
此の花もおなじ運命(さだめ)にて
暫し止まる事もなく
たとえば水の流ること
わがよ誰ぞ常ならん
照る日曇る日雨にかぜ
おぼろ月夜やさつき闇
うつり化しげき旅の空
有為の奥山今日こえて
蔦やかずらのいばら道
ふみわけくればさやけくも
高嶺の月ぞすみわたる
浅き夢みじえいもせず
作詞营原義道和尚
いろは歌といえば昔は国語教育の第一歩として使われているもので、日本人にはおなじみの歌です。
「色は{葉}匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ酔ひもせず」
漢字に示すと上のようになるそうです。
いろは歌は元々『金候明最勝王経音義』が文献上の初出だそうで、仏教の経典の”音義” 、つまり文字の発音のアクセントなどを理解するための注釈書に掲載されていたそうです。元々この歌は詠み人知らずでもあり、時代を経るうちに様々な意味合いの解釈がなされました。一部ではキリスト教(ヘプライ語)との関係性もまことしやかに語られるようになってもいるようですが、内容を素直に読み取ってみると仏教の無常観、つまり限りある命の儚さが分かりやすく詠まれていることが分かります。
ここ二年のコロナは混乱を我々に混乱をもたらしましたが、同時に命の儚さも感じさせてくれました。現代は誰しもがお医者さんのお世話になることができ、高度な医療の恩恵を受けることが容易くなっています。その分、昔とは違って寿命が延び人生八十年とも言われます。
しかし寿命こそ伸びたものの、残念ながら命というものは最初から永遠に続くものではありません。死というものは必ずあり、今日生きているからといって、明日が確実にやってくるわけではないのです。
そして、それはコロナが始まる以前からもずっとそうだったはずです。我々の命は儚いものです。しかし、儚いからこそ命は尊いものであり、家族や友人や大切な人と一緒にいれるということが、とても有り難いものになるのだと思います。
令和四年が始まりました。この一年が皆様にとって素晴らしい一年となることをお祈り申し上げます。
(宗禅 和正)
禅と共に歩んだ先人 山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)8
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き、幕末より明治にかけて活躍し、現代の日本のあり様にも大きな影響を与えているといえる「山岡鉄舟」についてお話させていただきたいと思います。
清河 暗殺
江戸に戻った清河八郎ならびに浪士組ですが、京へ出発後に応募に応じた160人余りを加えて400名にもならんとする大所帯となりました。それが八郎の計画する攘夷決行の手兵となるという、より危うい状況を作りました。
八郎の計画は、先ず外国人の多く居る横浜を襲撃、市中に火かけ、外国人を斬る、黒船を焼き払う、神奈川の本営を攻撃して軍資金を奪い、厚木街道から甲府城を奪い、甄皇攘夷の義軍を起こすという壮大なものでした。幕府にとって八郎は再び危険な人物として睨まれます。前回とは違い早急に暗殺する必要に迫られていたのです。
八郎は安全を考えて行動していましたが、日頃の言動が俊烈な事もあって個人的に恨みを持つ者も多く、結局それが仇となってしまいました。浪士組取扱役を勤める者数名に虚をつかれて落命する事となったのでした。この時八郎は34歳、鉄舟は28歳でした。
八郎との交友により疑いをかけられた鉄舟は再び謹慎処分となりました。八郎と盟友といえる間柄になった事は鉄舟にとってその後の人生を変える大きな転機となったといえるでしょう。八郎の高い見識に学ぶ面も多かったことでしょうし、志士達との交友で多くの友人を作り、また鉄舟の人柄に惚れ込んで弟子となった者達もいました。それらは永く鉄舟を支えていく事になりました。
ただその間、鉄舟の禅の修行は停滞気ったとの事です。スランプといっていいでしょう。この謹慎を機にもう一度己をみつめ直した鉄舟は、それ迄を取り返すかの様に、その禅的境涯を深めていきます。そこで培われた力は風雲急を告げる幕末に大いに発揮される事となるのでした。
弱体化した幕府に対し、薩摩藩、長州藩が中心となり、武力で倒そうとする動きが高まる中で、当時の将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返上するという「大政奉還」を奏上しました。それを受け朝廷より「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府は廃絶となりました。ただ徳川家は存続しており、その存在を危険視する薩摩摩藩、長州藩の挑発に乗せられる形で 「朝敵」となり、「鳥羽・伏見の戦」に端を発する「戊辰戦争」に巻き込まれていきます。
以下次号
(一峰 義紹)
禅寺雑記帳
◆昨年十一月に、NHKの番組『ブラタモリ』で、羽村が紹介されました。タイトルは「江戸の水ー江戸の水が東京を潤す?」で、玉川上水、まいまいず井戸などが紹介されました。しかし肝心のタモリさんが羽村に来ませんでしたし、情報も大雑把だったのがとても残念でした。以下に出来れば番組で紹介して欲しかった事をあげてみます。
◆狭山湖(山口貯水池)と多摩湖(村山貯水池)は埼玉県にありながら都民の水がめとして作られた人工湖で、その水は羽村から横田基地やIHI工場等の下を地下水道で送って水を貯めていること。
◆神田上水、玉川上水、千川用水、三田用水、青山用水、本所用水の六つを「江戸の六上水」というが、神田上水と本所用水以外の四つは全て玉川上水からの分水であり、神田上水も水が少なく、玉川上水の水を助水して足しているので、江戸で使われる水は結局のところ、ほとんど羽村の水であったこと。
◆王子の王子製紙や大蔵省の印刷局は千川用水の水を使っていた (昭和四十六年まで)
ので、羽村の水で日本の紙幣が作られていたこと。
◆恵比寿のエビスビール工場は三田用水の水を使っていた(昭和四十九年まで) ので、羽村の水で日本を代表するビールが作られていたこと。
◆明治三年、玉川上水に船が通って多摩の野菜、茶、織物、薪、木炭、山梨や長野のぶどうや煙草の葉が東京へ、東京からは米、塩、魚などが大量に安価で運ばれ流通が一気に広がったこと。
◆この通船事業を中心に行ったのは羽村の指田氏、福生の田村氏、立川の砂川氏で、いずれも玉川上水の管理を坦っていた名士だが、最盛期には百を越す舟があり、その半分以上がこの三人のものだったこと。
◆この通船事業は東京から多摩、山梨、長野まで広いエリアに莫大な経済効果を及ぼしたが、水が汚れて飲料に適さなくなるとしてたった二年で中止になること。
◆折角盛んになった流通をなんとか出来ないかと、先の三人が中心となって甲部鉄道(今の中央線)と青梅鉄道が作られたこと。
◆羽村が生んだ文豪、中里介山に英語を教えたのは福沢諭吉の弟子であった指田氏(先の息子)この人が「奥多摩」という名称を考えた人で、奥日光や奥飛騨など「奥~」の元祖はこれであること。
◆羽村には養蚕など、伝えたいことはまだまだ沢山ありますが、このくらいの情報を入れて井上陽水さんの「お未来のあなたに~」と終わっていたら羽村の凄さが日本中に知って貰えたのにと、少し残念です。私達それぞれが郷土、羽村を知り、愛してその素晴らしさを縦に横に伝えて生きましょう。
(禅林 恭山)
第162号 令和3年 秋彼岸号
お彼岸に思う ~コロナと寺といのちと~
季節は巡り、秋のお彼岸となりました。
春と秋の理想的な季を選び取り、日本人は先祖の霊を偲ぶと共に、今、ここにこうしであることのありがたさを感謝し続けてきました。とても大事なことです。
このコロナ禍にあって葬儀も法要も縮小され、家族中心となりました。それでも、葬儀・法要は淡々となされています。お墓参りに来る方はコロナ以前と少しも変わっていません。亡き人を偲び、そのありがたさを思い出し、感謝の気持ちを表すのが、法要の大事な役割です。その機会や時間が失われてしまうことは、非常に因ったことで残念なことです。
今、このコロナ禍の状況で、私たちは何を大切にしたらいいのでしょうか。コロナにまどわされないで、自分の生活を保ち続けていくことです。朝起きて、夜寝るまで、自分のすること、したいことを、ていねいに取り組んでいくことです。自分で自分の生活に手ごたえを感じるような一日を過ごすことです。不平不満はたそのくさんありますが、先ず自分の生活との質を高めていきましょう。老若男女、そのそれぞれ自分の置かれている場で努力をしていきましょう。
お彼岸の七日間は、ふだん忘れがちな先祖のことを思うと共に、仏壇に手を合わせて、自分がこうしてあることに感謝をし、ご先祖や大地自然からいただいた、この自分の命をどう使っていくかを、ふりかえる時間でもあります。仏教では、それを六波羅蜜で示しています。
【六波羅蜜(ろくはらみつ)】
●布施ーーいただいたこの命を、自分のためだけでなく、どうしたら全てのものに対して、おかえしをしていけるか。
●持戒ーー良い習慣を自分の生活の中でどう作り上げてゆくか。
●忍辱(にんにく)ーーたえしのぶ時は、これに耐える努力をする。
●精進ーー日々の生活を大事にする。
●禅定ーー今していることを味わう。
●智慧ーー自分も皆も幸せにするには、どうしたらよいか。
日々の生活を味わい、ふりかえることが未来を作っていきます。
(宗禅 正俊)
~禅語に学ぶ~「ときには捨てる選択を」
今回は、「放下著」(ほうげじゃく)
という禅語を紹介させていただきます。
著は置字なので意味はありません。命令形の「放下」を強めるためのものなので、「投げ捨ててしまえ」と読みます。
この言葉は中国の唐の時代、趙州(じょうしゅう)和尚が厳尊者(ごんそんじゃ)という僧に放った言葉です。
厳尊者が、「何もかも捨て、手ぶらの時はどうしたらよいのでしょうか」と趙州和尚に尋ねられました。そのことに対し、趙州和尚は「放下著」、つまり「捨ててしまえ」と答えたのでした。厳尊者は「何も持っていないのだから、捨てようがない」と返しましたが、趙州和尚は「それなら担いでいけ」と答えました。
これは、厳尊者が何もかも捨てることが出来たと言っていますが、「何も持っていないことに対する執着」が出来ていることを趙州和尚は指摘し、その執着すら捨ててしまいなさいと論したのです。つまり、放下著とは「執着を捨てよ」という意味なのです。
執着には様々なものがございます。例えば「物の執着」。なかなか物が捨てられず、押し入れはパンパンで、部屋のあちらこちらに物が置きっぱなしの状態にしてはいませんか。もし、そのようでしたら、それが物に対する執着です。大切な思い出の物はなかなか捨てづらいと思いますので、まずは不必要だと思った物から手放していきましょう。部屋が片付くにつれ、心もすっきりとするはずです。
次に、「思い込み」や「過度のこだわり」も執着心につながる要因となります。「良い親であるべき」、「良い子であるべき」、「良い大学・会社に入るべき」、「お金や財産は多い方が良い」等々、「こうしなければならない」や「こうあるべき」といった考えを持っている方は多いかと存じます。しかし、その執着心が強いがゆえに、現実とのズレが生じたときに不幸を感じたり、挫折したりしてしまいます。大切なのは、思い込みすぎない、こだわりすぎないことです。そうしたものを一度手放すことで、もっと軽やかに生きることができるのではないでしょうか。
放下著は、「捨てる選択」もあることを教えてくれる言葉です。自分自身をよく見つめ、執着を見つけ出し、思い切って放り投げてみてはいかがでしょうか。捨てた先に本当の自分、新しい道が見えてくるはずです。
(禅福 尚玄)
禅と共に歩んだ先人 山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)7
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き、幕末より明治にかけて活躍し、現代の日本のあり様にも大きな影響を与えているといえる「山岡鉄舟」についてお話させていただきたいと思います。
浪士組結成
清川八郎の提言をもとに鉄舟は建白書を作りました。「急務三策」とされたその内容は
1、嬢夷の断行
2、大赦の発令
3、天下の英才の教育
といったものでした。これを松平春嶽(しゅんがく)と関白近衛忠煕(このえただひろ)に提出したのでした。
おりから幕府は天誅の横行で浪士の取締りに手を焼いており、さらに関白近衛忠煕より浪士募集の命令もあったので、春嶽は反対の声を抑えて八郎の策を取り入れ、幕議で浪士組結成と大赦を決定しました。
大赦によって無罪となった八郎は浪士組結成の責任者松平忠敏(ただとし)に「有名の英士、尽忠報国の士」として幕府の御用に立つという言い分(ぶん)で奉行所より身を預かるという形で浪士組に入りました。浪士取締役として鉄舟以下「虎尾(こび)の会」のメンバーが多く採用され、正(まさ)に八郎の思惑通りとなったのでした。
集まった浪士は玉石混交、様々な経歴を持つ235名、当初の予定の50人を大きく上回るものでした。その浪士組に与えられた任務は、将軍家茂(いえもち)の上洛の先供警護(せんくけいご)というもので、一同は一路京都へ向け出発したのでした。京都に着いた浪士を新徳寺というお寺に集合させた八郎は、朝廷に提出する予定の上表文を読み上げました。その内容は、将軍家(徳川)が攘夷に背く様な事をすれば身を挺して朝廷を守り、幕府といえども容赦なく譴責(けんせき)するというものでした。八郎の勢いに押されて全員で署名し、それが朝廷に受理され、さらに孝明天皇より攘夷の勅諚(天皇の命令)を賜ったのでした。
将軍家茂を警護すべき浪士組を一転して尊皇懐夷の先兵に変えるという奇術を成し遂げた八郎でしたが、幕府は激怒しました。そこで浪士組に江戸への帰還命令が下ります。勅定をもらった八郎には江戸行きは攘夷決行の為にも渡りに舟といったところでしたが、将軍の上洛を待たずに戻る事が浪士の中で問題になりました。結果、袂を分かつ形で残留組と帰還組に分かれました。この残留組は京都警護の任にあった会津藩あずかりとなり後の新撰組の母体となったのでした。ここで鉄舟は江戸に戻る事になりました。
以下次号
(一峰 義紹)
禅寺雑記帳
◆この夏も激烈な豪雨による災害が多発しました。被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。豪雨は世界中で起こっていますし、異常な高温によって大規模な山火事が世界のあちこちで発生し、広大な森林が失われています。これらの原因が本当に地球温暖化によるものであるならば、早急に真剣な対応をしないと人類の存亡に関わるように思えます。他人事ではありません。
◆アメリカの野球、MLBで、大谷翔平選手が大活躍しています。すぐれた投手でありながら打てばホームランの二刀流、ベープ・ルースの再来ともてはやされています。百年前、まだ人気のなかった当時の野球は、ベープ・ルースという凄い選手が評判となって一気に国民的スポーツとなったそうですが、現在のMLBは他のスポーツやコンテンツに押されて、実は人気が下降気味なのだそうです。しかし大谷選手の評判で、MLB全体の人気が上がっているというのです。日本と違って、1試合しか行われないオールスターゲームにも選出されましたが、MLBは大谷選手の為にわざわざルールを変更して、投手と指名打者の両方での出場を認めました。その言動や人柄も高く称賛されており、同じ日本人としてとても誇らしく思います。
◆大谷選手はゴミを見つけると、試合中であろうと拾ってポケットに入れています。これは花巻東高校野球部の佐々木監督の「ゴミを拾うと運気が上がるから拾いなさい」という指導によるそうですが、彼の成功を見ると効果は抜群です。仏教ではこの行いは「自利自他」(他の役に立つ事が自分の為になる)あたりますが、
これだけ成功してもそれをやり続ける純粋さが何よりも素晴らしいと思います。
◆地球温暖化の防止も、コロナ感染症の抑止も、大谷選手のように目の前の小さな事に気づき、出来ることを実行していく事から始まるように思います。彼は今季、ホームラン王と最優秀投手賞、更にMVPの全てを獲得する可能性があります。彼に力をもらいながら、私達も頑張りましょう。
◆現在『ムーンライト・シヤドウ』という映画が公開されています。吉本ばななさんの原作で、作品の重要な要素として川や橋が登場するのですが、その撮影が羽村の堰下で行われました。予告編でちらっと見るだけでも「あっ羽村だ」というシーンが満載です。原作自休、様々な言語に翻訳されて世界中で読まれている作品ですし、海外の映画祭に出品する可能性もあるとの事なので、羽村の河原が聖地となって世界中からファンが押し寄せる事になるかもしれません。
◆この作品は日の出と昭島の映画館では上映されません。立川では上映されます。
(禅林 恭山)
第161号 令和3年 盂蘭盆会号
未来への進み方
お盆の季節がやってまいりました。今年も昨年と同様、施餓鬼会は規模を縮小して執り行われることが決定しております。
こんなにもコロナ騒動が長く続くとは思いもしませんでした。マスクなしでは外も歩けない日々がいつまで続くのかと、途方に暮れてしまいます。
コロナに限った話ではありませんが、これからの未来を生きる子ども達が、こういった不安や恐怖を感じることのない生活が送れるよう、唯々祈るばかりでございます。
さて、「未来」といいますと、皆様は未来にはどう進んでいるとお考えでしょうか。未来が前方にあるとして、その未来へ向かってまっすぐに進んでいき、過去は後方へと離れていく、と考えている方が大多数かと存じます。ところが、日本語には「先日はお世話になりました」や「後回しにする」といった言葉がございます。
未来が前方にあるのであれば、後回しではなく先回しに、先日ではなく、後日となりそうなものですね。このような時間と空間の概念が逆になっている言葉が日本語には存在いたします。
なぜ、このような言葉が存在するのかといいますと、ある学者の話では、室町時代までは「さき」という言葉は過去を示し、空間用語としては「前方」を示していたそうです。そして、「あと」という言葉は未来を示し、「後方」を示す言葉だったそうです。このことから、室町時代までの日本人は、未来が前方にあるとして、後ろ向きになり、過去を見ながら未来へ後ずさりをして進んでいる、と考えていたのではないかと論じていました。過去は常に目の前にあり、故郷の景色や家族との生活など人々と共有できるもの、という感覚が基礎になっていたと考えられているそうです。
現代社会では、科学技術が発達したことにより、過去よりも未来を重視した社会になってきている気がいたします。過去の出来事を置き去りにしてしまうと、大切な何かを失ってしまうのではないかと危惧しております。
「先祖」という言葉も先の祖と書きます。
私たちが今こうして生きているのはご先祖様が命を紡いでくださったからです。
これからお盆が参りますが、どうか、遥か彼方にいらっしゃるご先祖様のことも思い、手を合わせていただけたら幸いです。
(禅福 尚玄)
鎌倉流御詠歌を味わう4
【孟蘭盆会施餓鬼和讃】うらぽんせがきわさん
次に同じく弟子阿難(でしあなん)
餓鬼に施す神呪(じんしゅう)を
数多世尊(あまたせそん)にさずけられ
その神呪の功徳にて
手向の水の一滴も
汲めども蓋きぬ法の水
一椀に盛る干飯さえ
万鬼の腹を満しけり
作曲菅原久子
七月のお盆になると各寺院では山門施餓鬼会(さんもんせがきえ)という法要が執り行われます。昨年からのコロナ旋風により、近隣の和尚さんがたくさん集まることが難しくなりましたが、それでもご住職お一人でも執り行うお寺さんが多いのではないでしょうか。現在、お寺で行われている施餓鬼会はご先祖さまへの供養という側面が強調されていますが、元々は文字通り餓鬼道に堕ちてしまった方々に対する供養をするための法要でしたお釈迦様の弟子である阿難尊者が修行中に、夢かうつつか餓鬼に出合います。
その餓鬼が、「あなたの命は三日後に絶えるであろう」と阿難尊者に伝えたのです。命が助かるためには、「一切無量の餓鬼に飲食の施しをし、供養せよ」と言われたので、お釈迦様に施しの仕方を教わり、施餓鬼棚にお米や野菜をたくさんお供えし、供養、をして、阿難尊者は寿命を得たと云われています。
このように、施餓鬼は元々は餓鬼道に堕ちたものへの供養でしたが、現在はあらゆる精霊への供養の場として執り行われています。施餓鬼棚の中央に「三界高霊」と書かれたお位牌がありますが、この世とあの世と、あらゆる世界の精霊に対して、施しを行っています。
施餓鬼棚と呼ばれる祭壇をお寺本堂の向こう正面、御本尊様とは逆側、つまりお寺の外方向に向かってお把りしているのも、施餓鬼会の精神の表れではないかと思います。導師はご本尊様に背を向けでお経をお読みすることになりますが、外に向かってお経をお読みすることで、自分以外のあらゆる命の存在に対して感謝の気持ちを表わしているのだと思います。本山の建長寺では山門施餓鬼の名前の通り、七月十五日には、本堂ではなく、文字通りの三門(山門)、お寺の入り口から外に向かって施餓鬼供養が執り行わ
れています。
お盆はご先祖様がご自宅に帰ってくる期間と云われていますが、施餓鬼会ではご先祖様はもちろん、あらゆる命の精霊に対して感謝の心を手向け、いまここに生きていることの有難さを実感するための供養となります。夏は生命の活動が最も盛んになりますが、命の恵みに感謝する施餓鬼会の心をどこかに留めておきたいです。
(宗禅寺 高井和正)
禅と共に歩んだ先人 山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)6
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き、幕末より明治にかけて活躍し、現代の日本のあり様にも大きな影響を与えているといえる「山岡鉄舟」についてお話させていただきたいと思います。
清河八郎
庄内藩士、清河八郎と出合ったのは鉄舟が二十四歳の頃でした。日本の行く末に不安を感じていた両者は意気投合し、親交を深めていきました。
前回世べました「日米修好通称条約」を結んだ幕府の姿勢に失望した人々によって「尊王攘夷運動」は活発化していきました。危機感を覚えた大老井伊直弼によって、世に一言う「安政の大獄」が行なわれました。幕府の政策に反対する者を強権をもって容赦なく粛清していきました。そういう時期に出会った二人は、志をを同じくする者らと夜な夜な会合を持ち酒を酌み交わしては国政について論じあっていたのでした。もちろん表立っては出来ない事でしたから、会合場所は清河の私塾や山岡の邸宅で内々に行なわれていました。
「安政の大獄」が始まった翌年、水戸の脱藩浪士達により「桜田門外の変」が起こされます。幕府の大老が暗殺されるというこの前代未聞の事件は、多くの志士に刺激を与え、倒幕、尊皇壌夷の機運を高めました。清河・山岡らも「虎尾の会」という秘密結社を結成し、攘夷・倒幕に向けての盟約を結んだのでした。
しかし幕臣である鉄舟は、この倒幕という事をどう考えていたのでしょう?鉄舟は徳川の世のままではこの荒波の中、日本は生き残れないとは考えていた様です。しかし何代にも渡り旗本として禄をはんで来た者として当然恩義を感じています。だからこそ源、足利の様な終駕を迎えてほしく無い、有終の美を飾ってほしいと思っていました。攘夷(外国人を排斤する)については現実的では無いと考えていた様で、他の仲間との温度差を感じます。鉄舟は相変わらず禅と剣の修行に没頭する日々を送っていましたが、清河が危険分子として幕府から目を付けられ、行動を共にする事の多かった鉄舟も幾度か事件に巻き込まれます。とうとう追われる身となった清河は江戸を脱出して方々を流浪する事となりました。清河との関係性を疑われた鉄舟は謹慎のうえ尋問を受けますが、なんとか疑いを晴らし講武所への勤めも再開されました。
そんな折、地方で多くの同志を集めた清河から便りが届きます。幕府政事総裁職にあった福井藩主、松平春嶽に上申書を出してもらいたいとの事でした。
以下次号
(一峰 義紹)
禅寺雑記帳
◆新型コロナウイルス感染症が未だ収束しません。非常事態宣言やまん延防止等重点措置が延々と繰り返されて辛い日々が続きますが、もう少しの辛抱と信じて頑張りましょう。朝の来ない夜は無く、止まない雨はありません。
◆今年の五月末に、アメリカのアマゾン社が配達センター内に、従業員がシフトの合間に利用出きる瞑想ボックス「Ama Zen」を設置すると発表しました。「Zen」は「禅」のことだと推察されます。目的は従業員の安全と心身の健康をサポートする為、ボックス内でメンタルヘルスやマインドフルネスを行う事です。
◆マインドフルネスは日本ではまだ聞き慣れない言葉ですが、アメリカではアマゾンだけでなくGAFAといわれるIT企業をはじめ多くの企業や政府機関までもが取り入れ実践して効果をあげています。実はスマートフォンには出荷時にこのアプリが入っている程普及しているのです。
◆このマインドフルネス、実はそのルーツは我々の禅なのです。スマホ等の革新的な発明をいくつもした故スティーブ・ジョブズ氏が日本人僧に参じて坐禅をしていた事実もマインドフルネスの普及に拍車をかけた一因です。
◆仏教語(パーリー語)の「サティ(今ここに気づく)」の英訳がマインドフルネスですが、現在普及しているマインドフルネスはマサチューセッツ大学のジョン・カパットジンという教授が、禅と西洋科学を統合したもので、「今ここの状態を、一切の評価や判断を挟まずにただ注意を向けて受け入れること」というトレーニングのことです。
◆私たち人間は起きている時間の50%以上は、「あの時あの人にあんな事言われた」といったように「今ここ」とは関係ないことを考えています。とっくに済んだ事を今に引きずって、自作自演で勝手に苦しみ続けているのです。マインドフルネスはこのような「心の迷走」に気づき、自分の呼吸を利用して心を「今ここ」に引き戻すことを目的とするのです。
◆この呼吸こそが、我々の坐禅の呼吸なのです。日本は鎌倉時代に禅が伝わって以来、武士の拠り所はずっと禅でした。武士は役目として与えられた自分の領地や領民、「今ここ」を命懸けで安堵しますがこれが「一所懸命」、いまの「一生懸命」の語源です。侍がいなくなってもしばらくは政治や財界のリーダーは禅に参じて腹を決めてきました。資源に乏しい日本が戦後の焼け野原から奇跡の発展を遂げた原動力も「今ここ」だったのです。
◆今日、アメリカという資源も豊かで人材も豊富な国が「今ここ」を取り入れ、そうした企業群がコロナ禍でも過去最高の業績を上げているのは象徴的です。
◆『羽村とうろう流し』は今年も中止となりました。
(禅林 恭山)
第160号 令和3年 春彼岸号
羽村の田んぼのチューリップ
春がやってきました。羽村の春といえば、田んぼのチューリップが有名です。
羽村の皆様はご存じですが、一峰院さんの門前に広々とした田んぼがひろがっ ています。昨年は、この田んぼで収穫されたお米を使った日本酒「はむら」が生 産.販売されましたが、この水田が春になると、一面チューリップの花園となります。十年前の四月、羽村に引越してきた私の妻が真っ先に案内してくれたのもこのチューリップの花園でした。春の暖かな日差しと色とりどりのチューリップ が眩しく映ったのを思い出します。
お彼岸が終わると、四月八日はお釈迦様の誕生日をむかえます。昔から「花祭り」 の呼び名で親しまれていす。故郷に帰省して出産しようと旅路急いでいた釈尊の母である摩耶夫人が、旅路の途中で産気 づき、道すがらの花園で出産という伝承があり、花祭りと云われるようになりました。いまここに二つとない尊い命を授かった喜びを釈尊は「天下天下唯我独尊 (てんじようてんげゆいがどくそん)の言葉で表現されました。
この一年コロナの嵐が吹き荒れ、我々もどこかいつもと違って浮足立っていたのではないかと思います。コロナ患者を受け入れる病院や医療従事者の方への誹謗や時短営業下営業しているお店、果ては緊急事態宣言下での公園で遊んでいる子供たちへの中傷の報道もありました。オリンピックでは男女差別、アメリカでは人種差別と、何だかお互いに足を引っぱり合っているようにも見えました。
咲いた〜 咲いた〜
チユーリップの花が〜
な〜らんだ な〜らんだ
あか〜 しろ〜 きいろ
どの花 見ても〜 きれいだな〜
童謡「チユーリップ」
どの花見てもきれいだな。チューリッ プは赤、白、黄色と様々な色がありますが、お互い色がちがうからこそ、一緒に咲いた時の味わいは深く、お互い色が違うからこそ、一つ一つが際立つのではないかと思います。
チューリップの花言葉は思いやりだそうです。浮足立っている時こそ、思いやのこころが大切なことを羽村のチユー リップが伝えてくれているよう感じます。
(宗禅寺 高井和正)
〜禅語に学ぶ〜
春在枝頭已十分~~幸せはすぐそこに~
寒さも和らき、暖かくなってまいりました。境内の梅の木にも花が次々と咲き、 春の訪れを感じます。
このご時世からか、咲き誇る梅の花を見ると、心までも温かくさせてくれる気がいたします。例年春は変わることなくやってきますが、その年々によって感じ方が変わるのは、人間ゆえのものですね。
「春の梅」と申しますと、このよぅな言葉がございます。
「春在枝頭已十分」
「春は枝頭(しとう)にあって己(すで) に十分」と読みます。この言葉は、中国 朱の時代、戴益(たいえき)という詩人の「春を探るの詩」の一節です。
終日尋春不見春
(終日春を尋ねて春を見ず)
杖藜踏破幾重雲
(あかざを杖つき踏破す幾重の雲)
帰来試把梅梢看
(帰り来たりて試みに梅梢を把りてみれば)
春在枝頭己十分
(春は枝頭に在って己に十分)
春を一日中探して歩き回ってみたものの、見つけることは出来なかった。藜の杖を つき足をひきずりながら帰ってきた。ふと家の梅の枝に手を伸ばしてみたところ、なんとつぼみが膨らみ香りを放っていた。まさに探していた春は自分の家にあったのだ。といぅ意味です。
春を探しに歩き回らなくとも、こんなにも身近にあつたのだということですね。
また、禅語としては「人は幸せを自分の心の外側に求めるが、身近にこそ存在する」という意味もございます。
幸せというのは、遠くに探し求めるのではなく、己にあるということに「気づく」ことも大切です。
家族と一緒にいられること、毎日おいしい食事がとれること、気の合う友人がいることなど、当たり前に感じているものこそ本当の幸せなのです。
「己に十分」な状態であると気がつくことで心に余裕が生まれ、毎日を活き活きと過ごすことが出来るのではないでしょうか。
コロナ禍で外出することが難しい今だからこそ、身近な幸せを探してみてはいかがでしよう。物を無くしたときと同じように、意外と目の前にあるものですよ。
(禅福寺 尚玄)
禅と共に歩んだ先人 山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)5
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き、幕末から明治にかけて活躍し、現代の日本のあり様にも大きな影響を与えているといえる「山岡鉄舟」についてお話させていただきたいと思います。
赤貧生活
山岡家の婿養子となり、所帯をもった鉄舟でしたが、その生活は楽なものではありませんでした。亡くなった静山には母があり、また妻英子(ふさ)のほかに妹、弟がいて、それらを養っていかねばならなかったのですが、山岡家は薄給で食べていくのがやっとの有様(ありさま)、講武所(こうぶしょ)(幕府が旗本子弟の武術鍛錬のため作ったもの)の世話役にはなったのでしたが、さほど手当をもらえるものでもなく、さらに鉄舟が「尊皇擾夷(そんのうじようい)(天皇をあがめ、外国人をぬ興かる)」の国事に奔走しはじめて、その貧困に拍車がかかったのでした。
嘉永(かえい)六年(1853年)ペリー率いる黒船が浦賀沖に来航しました。国力を背景に威圧的に開国を迫るペリーに幕府は屈し、翌年「日米和親条約」を締結させられました。永年続いてきた「鎖国」政策が終わったのでした。そういった時代背景のもと、活発になったのが尊皇譲夷の思想でした。ちなみにその時鉄舟は十七歳、結婚は二十歳の時でした。貧しいながらも剣と禅の精進を欠かさない鉄舟でしたが、二十三歳のころ、再びやって来たペリーの艦隊に、今度は「日米修好通商条約」という新たな不平等条約を結ばされた幕府の姿勢を見て、憂国(ゆうこく)の志を抱く様になりました。江戸には諸藩を脱藩してきた浪士が多く集まっていましたが、志を同じくする者たちと交友を重ねていったのでした。少ない収入の中、志士達との交流で家計はたちまち逼追し、米にも事欠き、落ちている菜っ葉を漬けて食べる様になりました。金に困って家財道具から畳着物までだんだん売り払い、畳まで売ったので八畳の間に畳を三枚残してガラガラになってしまったそうです。一枚に机があって、ほかの二枚が寝食、接客の場になりました。何年たっても畳替えができないのでボロボロになって、机の畳は座る所が丸くくぼんで、しまいには床板に届いてしまったという事です。冬の夜も夜具が無く、ボロボロの古蚊帳にくるまって、夫婦で寒中抱き合って寒さをしのぎ寝たそうです。
衣食住、完全に破綻している様にみる山岡家ですが、妻英子(ふさこ)は何も不平をいわず、また鉄舟もその貧しさを楽しむかの様に過ごしていました。そんな中で鉄舟の人生を変える人物と邂逅(かいこう)します。それが出羽の浪人、清河八郎(きよかわはちろう)でした。
以下次号
(一峰 義紹)
禅寺雑記帳
◆新型コロナウイルス感染症の禍は未だ収まらず、年初から首都圏は緊急事態宣言が出たままでしたが、ワクチン接種も順次行われる予定とのこと、長く暗いトンネルの出ロがようやく見えてきたようです。皆様にとって良い新年度になりますよう願ってやみません。
◆お釈迦さまは私たちの生きるこの世界を「サハー」と呼びました。これを音訳したものが「娑婆(しゃば)」で、意訳したものが「忍土」です。「苦しみを耐え忍ぶ場所」というのがこの言葉の意味なのです。
◆お釈迦様は苦しみの原因を「思い通りにならない」事とされました。「生まれ」(性別、容姿、、能力、環境など)は選べないし、「老い」「病気」「死」のどれも避けようがありません。この根源的な四つの思い通りにならない「生老病死」の事を「四苦」といいます。
◆さらに、愛する人と別れなければならない「愛別離苦」、嫌な人とも関わらなければならない「怨憎会苦(おんぞうえく)」、求めても手に入れられない「求不得苦(ぐふとっく)」、人としての体と精神を構成する五つの要素から生じる「五蘊盛苦(ごうんじようく)」の四つの思い通りにならない事をあわせて「四苦八苦(しくはっく)」といいます。
◆私たちの生きるこの世界は「何一つとして自分の思い通りにならないから耐えなければいけない世界」なのです。
◆私たちは科学や文明の発達進歩によって色々な事をコントロールして、毎日を「思い通りに」生きているつもりになっていたのではないでしょうか。特にスマートフオンを手にすると万能のカを手に入れたかのように錯覚し、それによって自分と違う意見を目にすると攻撃を始め、まるでそれが正義であるかのように自分の号一『葉に酔い、袋叩きにして引きずりおろすといったような不寛容の連鎖は目に余ります。
◆「思い通りになる」ことが「当たり前」だから、「思い通りにならない」事を受け入れられずにイライラする、これが今の私たちで、コロナ禍はこれが大間違いだった事を教えてくれたのです。
◆本当は何もかも自分の「思い通りにならない」事が「当たり前」なのです。ウイルスなどによる疫病、地震や台風などの自然災害を私たちが完全にコントロール出来る筈がありませんし、また世の中には色々な人がいて、自分と違う意見があるのが当たり前なのです。
◆「思い通りにならない」事が「当たり前」なのだと考えられたら、日々の生活が少し楽に過ごせるようになると思いますし、そんな中で、もし「思い通りになる」事があったらその時本当に「有り難い」事だと感謝して、幸せを感じることが出来るのではないでしょうか。
◆コロナもやがて終息する筈です。その後に喉元過ぎれば熱さを忘れるとならないようにしたいものです。
(禅林 恭山)
第159号 令和3年 正月号
「謙虚」さを支えるもの
新型コロナウイルスの蔓延により、マスタの手放せない日々が続いています。
少し古いジョークですが、各国政府が国民にマスクの着用を呼びかける際に使われた文言といえば?
アメリカ「マスクをする人は英雄です」
ドイツ「マスクをするのがルールです」
イタリア「マスクをすると異性にもてますよ」
日本「みんなマスクしていますよ」
あくまでジョークですが各国の人柄があ らわれていて面白いですね。
この日本人特有の「右へならえ」といぅ価値観は他国の人から「自己が無い」 などと揶揄される事もあるものですが、こういった感染症対策の時、また東日本大震災の時などの非常時における規律正しい行動は他国から称賛されるものでもあるのです。
唯一絶対神を持たない仏教と多様な神々を祀る神道。その両方の影響のもと、日本の文化は紡がれてきました。そこにおいては人間とはこの大自然を構成する一つの部品という風に我々自身をとらえています。ですので自ずから自然に対し畏敬の念を持ちます。その畏敬の念が我々の謙虚さや公共心の元になっています。
対して唯一絶対神を持つ宗教(ユダヤ教、キリスト教.イスラム教)において、人間は神が「手づくり」した特別な存在として認識されています。神と一人一人 の人間が契約しているわけで、その契約こそ最も大切にされるべきもので、集団や国といった概念に優先されるのです。
こういった宗教的背景を持たずにその欧米的価値観のみを取り入れて傍若無人に振る難い、それを格好いいと思っている人が見受けられますが、非常に残念に思われます。また「自粛警察」と呼ばれる者らの行いにも謙虚さが全くありません。
自分自身のまわりに丁寧に目を配り、他者の迷惑にならない様に留意し、自分の行動を律していく—–この公共心あふれる謙虚な姿勢こそ我々日本人が大切にしていくべきものだと思います。
(一峰義詔)
鎌倉流御詠歌を味わう3
【天地のめぐみ】第三番
山河を照らす陽の光
雲間をもるる月の影
万のものに隔てなの
天地の慈悲かぎりなし
作曲菅原久子 作詞 菅原義道
宗禅寺では毎年除夜の鐘を開催している。除夜の鐘は煩悩の数だけ108回撞くのが正式なようだ。一年の終わりに鐘を撞いて、この一年は煩悩とおさらばしようということだ。今の最大の煩悩はコロナであろう。皆が煩い、悩んでいる。実際には鐘をついただけでコロナとおさらばできるわけではないのではあるが、コロナで中止にしていなければ、日本中のお寺でコロナ煩悩退散の鐘が撞かれるわけで、人々の祈りの力が日本中に鳴り響くのである。
四弘誓願文(しぐせいがんもん)という お経に「煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだんごの一文がある。「尽きることは無い煩悩を断ち切ることを誓い願います。」という文になる。ここが大切なのだが、煩悩を消し去るのではなく断ち切るという。煩悩が湧き起こつてくることは避けられないのだが、その煩悩にとらわれすぎない部分が大事であるとうことであろうか。コロナが消え去ることはないのだが、コロナにとらわれすぎてはいけないということでもある。
昨年、思いがけず神宮外苑の有名な銀杏並木を訪れる機会があった。訪れたといっても、仕事に向かう途中に車でたまたま通りがかっただけのことなのだが、 信号待ちの渋滞もこちらには都合がよく、ほんのひととき車の中からではあったが秋の明媚を楽しませていただいた。
穏やかな自然に包まれてみると、日頃の煩わしさをひと時忘れて、自分が自分に戻れるような感覚を得られる。それはコロナ禍で右往左往している現在の我々にとっても同じことで、こちらが悩んでいようが喜んでいようが悲しんでいようが、空に佇む太陽や月は、いつもどんな人にも分け隔てなく、有り難い光をもたらしてくれている。神宮外苑の銀杏の木もまた同じであった。
コロナ感染者が増加傾向にあった時期であったものの、銀杏並木では赤ん坊を連れた家族連れから友人同士やカップルに至るまで、老若男女問わず大勢の人たちが歩いており、写真を撮ったりしながら、晩秋の週末を思い思いに笑顔で楽しんでいた。そんな姿に触れた私を、思いがけなく平和な気持ちにさせてくれたことを思い出す。
正月は天気が良ければ初日の出を拝みたい。毎日毎日太陽が昇ってくることほど、素晴らしいことはないと思う。天地のめぐみがある限り、我々は大丈夫なのだと信じたい。
(宗禅寺 高井和正)
〜禅語に学ぶ〜 己を見よ
昨年より続くコロナ禍のなか、新しい年が明けました。本年が皆様にとって心おだや力な年でありますようお祈り申し上げます。
このご時世ということもあり、初詣に行くことを控えている方もいらっしやると存じますが、誰もが真っ先に願うのは、「コロナゥィルスが早く収束しますように」ではないでしようか。私も、一刻も早くこの事態が収束することを切に願っております。
昨年は新型コロナゥィルスに翻弄され続けた年でありました。目に見えぬ敵ということもあり、’いつどこで感染する かわからない恐怖や、連日報道される感染者数や死亡者数を見ることにより、先に精神がまいってしまつた方も少なから ずいたのではないでしようか。また、誤った情報により、トイレットべーパー類を朝からお店に並んで買いに行った方もいらっしやると思います。今振り返ってみると、冷静さを欠いていたと思ってしまいますよね。人は思いもしない緊急 事態に遭遇すると、冷静な判断が出来なくなってしまうものです。
照顧脚下
または、「脚下照顧」や「看脚下(かんきゃっか)という禅語をお寺の玄関先で見かけた方もいらっしゃるかと存じます。 どれも「足もとをよく見なさい」という言葉ですが、実生活に展開し「履き物をそろえて脱ぎなさい」ということにもな っております。また、「足もとをよく見よ」というのは、「自分自身(自己)をよく見よ」という意味も込められております。履き物が乱れていることに気がつかないほど、 あなたの心は乱れていますよ、とさとらせているのです。
ときに私たちは、自分自身の足で歩いているようで何かに流されて歩いていたり、誰かの後ろをついて歩いていたりし ていることがあります。特に現代の情報化社会では、様々な情報によって流され、地に足がついていない状態になってしまうこともあるでしよう。
「照顧脚下」という言葉は、時には立ち止まり、何のために、どこに向かって歩いているのか、そのことをしっかりと自分自身で見つめなさい、と私たちに問いかけているのです。
人生を歩んでいく上で不安や迷いは尽きません。そのようなときは立ち止まってもいいのです。自分の足もとをしっかり固め、確かな足取りで新しい一年をともに歩んで行きましよう。
(禅福 尚玄)
禅寺雑記帳
◆令和3年となりました。本年も羽村臨済会をどぅぞよろしくお願いいたします。
◆新型コロナウイルス感染症が世界を覆い、懸念された第3波が日本でも海外でも更に猛威を振るつています。本稿、12月4日の時点で世界中の感染者は6,300万人、死亡者は147万人を越えています。日本国内でも感染者は156,000人、死亡者は2,300人以上です。皆様がこの文章を目にされる時には、どれだけ増えているでしよぅか。
◆罹患された方、亡くなられた方、そのご家族に心よりお見舞い申し上げます。 また、日々危険と向き合いながら最前線で働く医療従事関係者の皆様やそのご家族には心から敬意を表するとともに、深く感謝を申しあげます。
◆まだまだ不便が続きますが、有効なワクチンが出来たとの報道も出ており、外国では接種も行われ始めています。効果が本当に有効で、副作用も無ければ良いのですが、日本国内でワクチンが普及するまでにはもうしばらく時間がかかりそうです。それまではマスクや手洗い、うがい、蜜を避け距離を取るなど、基本的な事、出来る事をしっかりやって、お互い助け合っていきましょう。
◆今まで当たり前だった事が、実は当たり前では無かったという事が良く判った一年でした。行事という行事は皆中止、親子ですら感染を危惧して会えないとか、目に入れても痛くない程可愛い孫にも会えなくて寂しいといった声も沢山耳にしました。
◆「当たり前」の対義語、反対の言葉は、「ありがたい」だといいます。漢字で書くと「有り難い」です。東日本大震災の時も当たり前が当たり前では無い事に気付かされましたが、このコロナ禍は私たちから更に多くの当たり前を奪い取ってしまいました。当たり前がどれだけ有り難いことかを忘れずに、ひとつひとつの機会を大切にして、これからの人生を送っていきたいものです。
◆「祥」という字は「めでたし」や「さいわい」という意味の漢字ですが、意外にもこの字には「わざわい」という意味もあるのです。災いがあった時、祭壇に生贄を供えて神様に祈ったところ、災い転じて福と為った事を表わしたもので、左側の偏、示すが祭壇を、右側の羊が生 贄を表わしています。コロナという禍いも、「当たり前」が「有り難い」事なのだと教えてくれたと考えれば、幸いと転じた事になるのかもしれません。一周忌のことを小祥忌、三回忌の事を大祥忌といいますが、大事な家族を亡くした厄を超えて、法要を営み前へ進んでいきましょう。という意図があるのです。法要には 必ず効果があります。コロナ禍の中でこそ、規模は小さくとも法事や供養をして頂きたいものです。
(禅林 恭山)
第155号 令和2年 正月号
お正月-神と仏と-
令和二年の新しい年が明けました。本年もよろしくお願いいたします。
以前、檀信徒の方から「お正月にはお墓参りをするものなのですか?という、ご質問をいただいたことがあります。歳神様をお迎えするお正月に、お墓参りは縁起が悪いというイメージもあるようでこういったご質問になったのだろうと思われます。
吉田兼好(兼好法師)書いたとされる鎌倉時代末期の『徒然草』につぎのような文章があります。
「月寵(つごも)りの夜、亡き人の来る夜とて魂祭(たままつ)るわざは、この頃、都にはなきを、東(あづま)のかたには、なほすることにてありしこそ、あはれなりしか」、
「大晦日、帰ってくる亡き人の御霊(みたま)をお祭りする習わしが都ではなくなってしまったが「関東ではいまだ行われていることに深い感銘を覚えた」。
古き時代は月の満ち欠けにて暦を判断していました。(太陰暦)、月龍りというのは、月が新月に一番近い月末を示している言葉になるようです。
「亡き人が帰ってくる」、どこかで聞いたことがある表現です。そう、夏のお盆(孟蘭盆)です。ご先祖様がご自宅に帰って来られると云われているお盆、迎え火を焚いてお迎えし、盆踊りでお見送りをするあのお盆です、実は、かつての日本ではご先祖様が帰ってこられるのはお盆だけではなく、お正月にも帰ってくると云われており、仏教が日本に来る前から、そのような習慣があったようです。長い年月を経るうちに、正月は歳神様をお迎えするから神社、お盆はご先祖様をお迎えするからお寺と、役割が分担されたということでしょうか。
神社の神様はその土地の鎮守様であり、我々が普段生活している土地をお守りし、自然(大地)の恵みである水や食べ物(穀物、野菜、魚)など、生活に欠かせないものを我々に与えて下さる存在と言えます。
お寺はその土地に生きてきたご先祖様をお守りしています。我々の命はご両親、ご先祖様からの授かりものだということです。
土地を護る神様とご先祖様を護る仏様、長い歴史の中で我々日本人自身が神仏両方に敬意を払ってきて下さったことによって、どちらも大事な日本の伝統となりました。
ご家族揃って地元の神社で旧年中にいただいた自然の恵みを感謝し、お寺でご先祖様に無事に新年を迎えたことをご報告する、土地と人に感謝して新年が始まります。
(宗禅寺 高井和正)
受け継いでいくもの
皆様明けましておめでとうございます。
この度、禅福寺の副住職としてお迎え頂きました田島尚玄(たじましょうげん)と申します。
簡単ではございますが、自己紹介させて頂きます。私は青梅市千ケ瀬町にございます臨済宗建長寺派宗建寺の次男として生を受けました。修行に行く前は、一般の大学で心理学を学び、同大学院法心理学科に進学し犯罪心理学等を学んでおりました。住職の父と副住職の兄の姿に影響をうけ、大学院卒業後、鎌倉にあります大本山建長寺専門道場に掛塔致しました。建長寺での修行を終え、宗建寺の兼務寺である緊徳院の副住職に就任し、昨年まで勤めておりました。そしてこの度、素晴らしいご縁を頂き、昨年十月に禅福寺のご息女であります田島弘恵(たじまひろえ)さんと結婚し、禅福寺の副住職となりました。令和元年という日本の新たな時代の幕開けの年に、禅福寺という新たな地でスタートを切ることに、言葉では言い表せないほどの感謝と縁を感じております。
禅福寺でございますが、あと二年後の令和四年になりますと、創建650年の大きな節目を迎えます。650年、とてつもなく長い年月ですね。その間、開山無二法一和尚様から代々受け継ぎ、禅福寺という寺を守ってきたということになります。
お寺でなくとも、私たちはご先祖様から命を代々受け継いでおります。両親は二人、祖父母は四人、曽祖父母は八人と遡ってまいりますと、十代目まで合わせると二千四十六人ものご先祖さまが存在する、という話を聞いた方もいらっしゃると存じます。この中の一人が欠けてしまうと、今の自分は存在しないことになります。今生きていること、これはとても尊いことなのです。お墓参りをする際は是非、顔が分からなくとも今まで代々続いてきたご先祖様に思いを馳せ、手を会わせてみてはいかがでしょうか。これからも、この命の尊さを語り継いでいきたいものですね。
私も禅福寺副住職として、現住職であります泰文和尚と共に、また、田島家一丸となって禅福寺を守っていく所存でこざいます。羽村寺院の一員となり早数ヶ月、まだまだ未熟者ではございますが、これからも何卒よろしくお願い申し上げます。
(禅福寺 尚玄)
禅と共に歩んだ先人 山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、今回より幕末から明治にかけて活躍し、現代の日本のあり様にも大きな影響を与えているといえる「山岡鉄舟」についてお話させていただきたいと思います。
マルチな才人
さて、山岡鉄舟という人を説明するとして、あまりに多くの面が存在していたという事実に驚かされます。
幕末には有能な旗本として幕府を支え維新後もまた、新生日本の礎の構築に尽力しました。剣の達人として知られ、多くの門人に菓われました。達筆としても高名で多くの書が残されています。さらに臨済禅の求道者として優れた境涯を得て、ついには自らの禅寺を建て、後進の育成にはげみました。全くその豊かな才能には驚異と共に感心させられます。
生い立ち
山岡鉄舟(天保七年、西暦1836年~明治二十一年、西暦1888年)は江戸本所(現在の墨田区)に蔵奉行(くらぶぎょう)、小野朝右衛円高福の第五子として生まれました。母、塚原磯(つかはらいそ)は剣豪とて名高い塚原ト伝(ぼくでん)を先祖に持つ家系の出身でした。
九歳より久須美閑適斎(くすみかんてきさい)より新陰流しんかげりゅう(直心影流じきしんかげりゅう)剣道を学びます。しかしすぐに飛騨郡代に任じられた父と共に飛騨高山に転居し、そこで七年間を過ごします。高山では弘法大師流入木道(じゅぼくどう)五十一世という書家、岩佐一亭に書を学び十五歳で五十二世を受け継ぎ「一楽斎」と号しました。また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学びました。
父の死に伴い江戸へ戻った鉄舟は、井上清虎の授助により十九歳の頃「講武所」に入り、千葉周作らに剣術、山岡静山に忍心流槍術(にんしんりゅうそうじゅつ)を学びます。
静山が急死し、静山の実弟健三郎(高橋泥舟たかはしでいしゅう)らに望まれて、静山の妹、英子(ふさこ)と結婚し山岡家の婿養子となります。
講武所に入って翌年には、剣道の技倆抜群により、講武所の世話役に抜擢されました。
また生前に父から勧められていた事もあり、十七歳の頃から禅の修行を始めます。長徳寺願翁、龍澤寺星定、相国寺独園、天龍寺滴水、円覚寺渋川と名だたる師家(老師)に参禅し、その境涯を大いに高め、後に滴水和尚より印可(悟りの証明)を与えられるに至ったのでした。
以下次号
(一峰 義紹)
禅寺雑記帳
◆令和最初のお正月を迎えました。羽村臨済会を本年もどうぞよろしく御願いいたします。
◆昨年は台風や豪雨で、各地に甚大な被害がありました。被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
◆台風十九号の時には東京都内にも避難勧告が出され、羽村市でも四百三十八世帯、千百人以上が小中学校などの避難所へ身を寄せました。羽村では河川の氾濫は起こりませんでしたが、堤防のすぐ下まで水は来ていましたから、もう少し雨が降り続いたらどうなっていたかわかりません。堰下の大きな堤防はまるごと流されて無くなりましたし、灯篭流しを行う宮ノ下グランドも土が流されてしまってひどい状態です。川の形もすっかり変わってしまいました。「何十年に一度」の災害が毎年のように続いています。どうか今年は穏やかな一年でありますように。
◆即位礼正殿の儀をはじめ、天皇陛下の一連の御即位に関する行事が無事に円成しました。日本という国の歴史の奥深さ、素晴らしさをあらためて教えて頂いた気がします。令和という時代が穏やかで、良い時代でありますように。
◆昨年のラグビーワールドカップ日本大会には大きな感動を頂きました。日本代表チlムはメンバー三十一人のえち、外国人選手が十五人も入っていましたが、試合前の国歌斉唱では全員が君が代を歌っていました。本当に日本の代表として、ワンチーム、一丸となって戦い、誰もが勝てないと思っていたずっと格上の相手を倒して、ベストエイト入りを果たしたのです。鍛練次第で人は不可能を可能に出来ること、あきらめないで目標に向かうことの大事さ、ラグビーという競技自体の面白さ、ノーサイドの清々しさなど、沢山のことを教えて頂きました。
◆そして今年はいよいよ東京オリンピック、パラリンピックが開催されます。折角の機会ですから、何かの競技を会場で応援出来たらと思いますが、私は今のところ抽選が全て外れています。結局テレビでの応援になりそうですが、それでも精一杯応援したいものです。
◆聖火リレーは早くも三月二十六日から福島県で始まり、日本全国を回るそうです。東京では七月十日から全六十三の市町村でリレーが行われ、羽村は七月十三日の朝に予定されています。お盆中ですが、雰囲気だけでも味わいたいと思います。
◆羽村臨済会の四件のお寺の一つ、禅福寺に新しく尚彦和尚様が副住職として入られました。二面に御本人の原稿が掲載されていますので是非お読みください。末永いお付き合いをどうぞよろしくお願いいたします。
(禅林 恭山)
第154号 令和元年 秋彼岸号
「餓鬼道」に墜ちないように
先日、美濃の正眼僧堂(しょうげんそうどう)の日々の生活の様子を取材した番組が放送されてましたので興味深く拝見しました。
僧堂での食事では喋ることはおろか物音一つ立ててはいけません。箸を置く音タクアンを噛む音にも細心の注意を払います。自分自身が雲水として修行しておりました時は「そんなものなのかな」と思いながら食事をいただいていましたが正眼僧堂の師家である山川宗玄老師がおっしゃるには「餓鬼道」に墜ちた餓鬼に食事をしていることを覚らせないためだとの事でした。
餓鬼はものを食べる事ができません。目の前にはおいしそうなものが沢山あるのに、いざ食べようとすると炎に変ってしまうのです。いつもお腹を空かせている餓鬼は他人の食事に敏感です。人が食べている姿をみつけたら「おまえらだけおいしいものを食べてるなあ」と羨ましがり、嫉妬してさらに苦しむことになります、餓鬼をさらに苦しめない様に静かに、ひっそりと僧堂において食事はなされているのです。
現代はSNSが大流行りです。そこでは誰もが多数の人に情報を発信する事ができます。多くの人が自らをアピールしています。やれ「何を食べた」「何を買った」「どこどこに行った」などと他人に知ってもらってどうするのかと疑問に思ってしまう事も発信されているようです。結果それは他人の嫉妬心を煽り「なら私はもっと」とエスカレートしていきます。なんだか不毛に感じます。嫉妬は地獄の入り口です。心に生じたはじめは小さなものでもどんどん肥大し自分自身が嫉妬心に支配されてしまうまでになってしまい平穏な日常とは程遠いものとなります。だからこそ他人に嫉妬心を起こさせないようにする事も大切なのです。そう心掛けて生きる事で自らも嫉妬心に悩まされる事が減っていきます。餓鬼を想いながら食事をすれば自ずと感謝の念も湧き、施すことの大切さも覚えるでしょう。「餓鬼道」に堕ちないようにと。
(一峰 義紹)
鎌倉御詠歌を味わう1
今号より鎌倉流御詠歌を一緒に読み進めてまいります。第一回の今号は「建長寺の由来和歌」です。
◆建長寺由来和讃
帰命頂来(きみょうちょうらい)建長寺
開山大覚禅師(だいかくぜんじ)には
広くこの世の人々に
禅道(みち)を弘めん心より
八重の潮路をわたり越え
遠く宋より来給えり
時頼ふかくよろこびて
その御徳に慕いより
時の後深帝(みかど)に聞こえ上げ
身代わり地蔵の由緒ある
地獄の刑谷(たに)を切り拓き
建長五年の霜月に
この建長寺(みてら)をば営みて
禅師を初祖となし給う
星はうつりて七百年
世間をてらす法の灯は
巨福のやまのいただきに
真如の月とかがやきて
清く気高く今もなお
不滅の光を放つなり
建長寺は鎌倉幕府第五代執権、北条時頼公により千二百五十三年に創建されました。それまで罪人を処刑し埋葬する地獄谷と呼ばれていた場所です。お地蔵様は地獄からも人々を救ってくださるということで、心平寺という小じんまりした地蔵堂があった場所でした。この因縁により、今も建長寺のご本尊様し地蔵菩薩となっています。
創建の時は鎌倉に都がおかれてから、およそ六十年後のことです。それまでの京都の平安貴族ではなく、鎌倉の武士が世の中をリードしていく時代の転換点でもありました。元々時頼公は仏教に深く帰依をされていましたが、時代を引っ張っていく新しい世代の人材育成に、大陸から入ってきた当時の最先端の禅の教えを、という強い信念のもと建長寺を創建されたことになります。禅の指南役には時頼公は当初、道元禅師の招聘を考えられておりましたが、ご高齢もあり断念せざるを得ませんでした。
一方の蘭渓道隆禅師は中国重慶のご出身。成都で得度され、千二百四十六年、三十三歳にて禅の布教のため日本にやってきます。博多から京都に滞在しておりましたが、既に多くの仏教寺院が立ち並ぶ京都において、自らの禅の道を説く余地がないと御判断され、時頼公の招きにより鎌倉に来られるのです。
巨福山(こぶくざん)建長寺は、新しい時代を切り開いていこうという時頼公と、禅の教えを広めていきたいという道隆禅師、二人の情熱が見事に合わさり創建され、禅の教えは鎌倉から日本全国に伝わり、今もその法脈は途絶えていません。
(宗禅寺 高井和正)
禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 あとがき
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。
前回で一旦この項はおわりとさせていただきましたが、あとがきとしてもう少しお話させていただきます。
子規と芭蕉
現代に続く「俳句」の隆勢の礎を築いたのは明治期に活躍した「正岡子規」にほかなりません。当時の俳諧は芭蕉を神格化し、芭蕉の句であればなんでも有難ならへがって、それに倣って句を創るといった風で百年以上も停滞していたのでした。その状況に「このままでは俳諧は滅んでしまう」と危機感を覚えた子規は旧態依然とした俳句界を徹底的に批判しました。
「陣腐(ちんぷ)」「月並み」といった言葉でバッサリと切り捨て、返す刀で彼らの教祖ともいえる芭蕉も切り捨てたのでした。一つ一つの句について、これは良い、これは悪いと評したのです。それは確固とした子規の「俳句観」があればこそといえるでしょう。「俳句」という言葉も子規が最初になります。子規はそれまでの俳諧は連歌の「発句」という体で詠まれている事を否定し、五・七・五の部分だけで完結する「俳句」を提唱しました。さらに技巧的なもの装飾的なものを排し、写生的に詠むことを良しとしたのでした。
かなり過激に自らを主張する子規とは手法は違いますが、芭蕉もそれまでの俳諧を否定し、「蕉風」を確立した訳ですので新たな価値観を持って来たという点で両者は同じです。子規によって新風を吹き込まれた俳句界はにわかに活気を取りもどし、現在につながっています。俳諧の命を永らえさせたという功績だけでも子規のなした事は偉業といえますが、反面芭蕉の評価はどうなったでしょう?
子規は芭蕉の詩情性を高く評価していましたが少し理解が足りなかった様に思われます。そこに禅的境涯という太い柱が欠けているからです(あえて禅的なものを無視したのかもしれませんが)。
活気づいた俳界には多くの才能が集まり、今日まで続いていますが、禅的境涯とは遠くへだたってしまった様におもわれます。臨済禅への深い理解をもった人が芭蕉を再評価してくれているのが救いでしょうか。
(一峰 義紹)
禅寺雑記帳
◆この夏も豪雨による甚大な被害が各地で起こりました。被害に遭われた方々に謹んでお見舞いを申し上げます。
◆極楽浄土は西にあるといわれ、太陽が真西に沈む春分、秋分の日に先祖供養を行うとその功徳が向こう側(=彼岸)の浄土に届きやすいと考えて春秋の彼岸の行事が行われるようになったといわれます。日本で最初の彼岸供養は西暦八百六年と記録がありますから、千二百年以上も彼岸は続けられて来たことになります。さらに二百年前の、六百六年から行われてきたお盆の行事とともに、これからも途切れることがないように伝えていきたいものです。
◆これだけの伝統がある国は日本だけだと思います。その伝統は、神と仏を大事にすることで続いて来ました。年間三千万人以上にのぼる外国人観光客のお目当ても、こうした伝統を感じられる神社仏閣や、世界一美味しい和食も含めた日本文化、四季折々美しい自然の風景なのです。私たちは本当に素晴らしい、世界一の国に住んでいるのです。英語教育に力を注ぐ事よりも、日本に生まれ、生きられる事がどれだけ素晴らしい事かを自覚出来る教育をして欲しいと思います。それが愛国心にもつながる筈です。
◆日本では戦後、愛国心という言葉が、あぶないものであるかのように扱われてきました。学校で国歌「君が代」の時に起立しない、歌わない教師がいたり、国旗「日の丸」を軍国主義の象徴だとして排除する動きが公に存在したのです。
◆愛国心は「ナショナリズム」と「パトリオテイズム」という二つの意味を含んでいます。「ナショナリズム」は民族主義、国粋主義、自国ファースト、といったところでしょうか。これに対して「パトリオテイズムは、郷土愛、祖国愛を表す言葉です。祖国への誇りや愛情を国民が持たなかったら、その国の未来は無いと同じです。大東亜戦争の敗戦国である日本は、行き過ぎた「ナショナリズム」によって戦争へ走ったとの反省から、「パトリオテイズム」も含んだ愛国心を悪い事だとして排除して来たのです。愛国心を教えない国は、世界中で日本だけです。
◆現在、小中学生が山や川で遊ばないよう指導されています。五十二歳の私が子供の頃は毎日のように、外で遊んだものでした。フナやザリガニ、熱帯魚のように美しいオイカワを採ったり、河原ではオニヤンマやトノサマバッタを追いかけ、向こう山でカブトムシやクワガタ、沢ガニを捕まえ、急な夕立ちに友達とびしょ濡れで家へ急いだ等の思い出は何にも代えがたいものです。そういう経験が自然と郷土愛に、やがては祖国愛へとなるように思いますし、生命の大切さも学べる筈ですが、その機会が与えられていない事がとても残念です。
(禅林 恭山)
第153号 令和元年 盂蘭盆号
令和も「今ここ」
元号が改まり、「令和」の時代がはじまりました。最初の元号「大化」から248番目です。元号は中国ではじまり、かつては広くアジア圏で使われた制度でしたが、現在元号を使っているのは世界中で日本だけとなりました。よくぞ残してくれたと思いませんか。是非とも、令和を良い時代にしていきたいものです。
早速、令和を社名に入れる会社が百を越えたそうです。会社の繁栄を願って新たなスタートを令和と共に切って行こう、という事でしょうから、良い事だと思います。しかし本来、元号は勅許、天皇陛下の許可無く使えないものでした。皆様の菩提寺の本山は御存知のように鎌倉の建長寺です。建長寺は元号が「建長」の時に建てられました。こうした元号を名前にした寺はそれほど多くなく、延暦寺、仁和寺、建仁寺、寛永寺などが代表的ですが、延暦寺、仁和寺は創建当時は違う名前で、後から元号を寺名にしています。創建当時から元号を冠された建長寺は、実はそれだけ日本にとって特別なお寺なのです。
建長寺は建長五年(1253)、鎌倉幕府五代執権、北条時頼が開山に宋(中国)から蘭渓道隆禅師を迎えて建立しました。正式名を『建長興国禅寺』といいます。「仏教の正面」といわれる禅の教えによって、日本国の繁栄を願ったのです。
禅とは「今ここ」の教えです。お経を読む時はお経に成り切れ、ほうきを持ったらほうきに成り切れ・・今ここの自分があるべきもの、やるべきものに成りきれという単純な教えです。世界には決まった時間には仕事中であっても礼拝をしなければならない宗教や、のべつ幕無しに呪文を唱える宗教が存在します。それが悪いとは言いませんが、禅ではお経は読むべき時にしかよみません。本尊すら決まっていないのです。仕事の時は仕事三昧釈迦も阿弥陀も忘れて良いのです。
日本は鎌倉時代からずっとこの「今ここ」を実行して来たお陰で、国土が狭く資源も乏しいのに繁栄してきたのです。「令和」がどんな時代になるかは、私たちの「今ここ」の積み重ね次第です。
(禅林 恭山)
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その16
◆白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく 衆生の他に仏無し
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
例えば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うことならず
六種輪廻の因縁は おのれが愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏み添えて いつか生死を離るべき
それ魔訶衍の禅定は 称歎するにあまりあり
布施や特戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
その品多き諸善行 みなこの中に帰するなり
一座の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いずくにありぬべき 浄土すなわち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳に触るる時
讃歎随喜する人は 福を得ること限りなし
いわんや自ら回向して 直に自性を証すれば
自性すなわち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門開け 無二無三の道なおし
無相の相を相として 行くも帰るもよそならず
無念の念を念として 謠うも舞うも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処すなわち蓮華国 この身すなわち仏なり
坐禅和歌・意訳
我々はもともと仏である 水と氷のようなもの
水を離れて氷なく 我々のほかに仏はない
皆、近くの仏を知らないで はるか遠くに仏を求む
それは水の中にいながら 渇きを求めるようなもの
裕福な家の息子が 物乞いするようなもの
六道輪廻の始まりは おのれの愚かさよるなれば
悩みに悩みぬいても 闇が晴れるとは限らない
坐禅による禅定 素晴らしきものである
布施行、持戒行の善行 念仏、織悔、修行など
全ての善き行いは 禅定あってのことである
ひとときの坐禅の禅定が 積んだ罪を滅してくれる
悪しき心はどこにあるか 善き心もすぐそばにある
ありがたくもこの教えに 触れる機会を得たとして
教えを受け入れたならば 幸福無限のこととなる
まして自ら行を積み 自己の本性感じれば
自己は即ち無性にて 言葉や理屈はいらぬもの
因果の道理に目が開けば 進むべき道は一つとなる
形なき形こそが真実となり どこにいても自分の場なり
心のひっかかりがとれれば 自らの行いすべて仏の現れ
遮るものなき空のように 心に智慧の月が照らされる
この上何を求めるのか 求めるものがないからこそ
今この場こそ蓮華国であり この身がそのまま仏となる
坐禅和讃シリーズ最終回です。
父母恩重経に続き、お経の意味を書かせていただきました。
禅は心こそが大事であると説きます。我々は無数の因縁の元にこの世に命をいただきます。日本のような裕福な国に産まれる子もいれば、紛争地域の難民キャンプで産まれる子、障害を持って産まれる子もいます。生まれの境遇に差はありますが、裕福な国に生まれたからといってそのまま幸せになるわけではなりません。財産や地位や物質的な豊かさよりも心の静けさ、穏やかさがあれば、そこに仏の智慧が現れると白隠さんがおっしゃっています。仏様にお参りをして合唱する。そこに蓮華国があります。
(宗禅寺 高井和正)
禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第十三話
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。
「かるみ」蕉風の完成
「おくのほそ道」の旅において芭蕉は「不易流行」を一歩進めた「かるみ」という境地に至ったのだと前回お話しました。「不易流行」も「かるみ」も蕉風の作風を説明するものとしての言葉ですが芭蕉の人生観そのものともいえるのです。
若い頃は覇気もあり、未来に大きな希望を持って生きていても、年を経て自らの老いと向きあった時、身も弱り病がちになったり、親しい人々との死別、自らの死への覚悟と、なかなかに思い描いていた幸せな人生はやってこない、幸福とは虚妄に過ぎないのではないか?それどころか人生とは悲惨なものなのではないか?
ではその悲惨な人生をどう生きていけばよいのか。大きく二つの道がある。一つは嘆くこと。もう一つは笑うこと。俳詰はもともと言葉遊びの中から発生したものでその中で生きてきた自分(芭蕉)にとっては人生は悲惨なものと覚悟しつつ、だからこそたまにある幸福をより喜び感謝したい。
「おくのほそ道」以降の芭蕉の句にはこうした人生への深い諦念が感じられます。苦しい、悲しいと嘆くのは当たり前の事をいっているにすぎない。今さらいっても仕方がない。ならばこの悲惨な人生を微笑をもってそっと受け止めれば、この世界はどう見えてくるだろうか?つまり「かるみ」とは嘆きから笑いへの人生観の転換だったのです。
俳詣はもともと滑稽の道、笑いの道でした。「かるみ」はその滑稽の精神を徹底させることにもなったのでした。その「かるみ」は時代を超え、後世の俳人にも受け継がれていきました。
病の床にあった正岡子規が「悟りといふ事は如仰なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は知何なる場合にも平気でいきて居る事であった」(『病床六尺』)と書いていますが、その平気ということは「かるみ」を子規として表現したものといえるでしょう。
参考文献
長谷川擢「奥の細道」をよむ
この項了
(一峰義紹)
禅寺雑記帳
◆令和最初のお盆を迎えました。日本では六百六年、推古天皇によって日本で初めてお盆の法要が行われたといいます。日本の最初の元号「大化」が645年ですから、それよりも更に古い、とっても歴史のある日本の伝統行事なのです。これからも未来永劫、大事に伝えて行きたいものです。それは今を生きる私たちの役目です。
◆今上天皇陛下は、初代の神武天皇から数えて百二十六代目と宮内庁のホームページに記載があります。神武天皇は紀元前六百六十年のお生まれですから、皇室の歴史は二千七百年近くもあるのです。
◆「神話の話をされても」という意見もあるでしょうが、存在が確実に確認されている代から数えても千五百年以上続いていて、わが国の皇室は世界の王室の中で最も歴史があるのです。誇らしい事です。
◆令和の典拠は『万葉集』からで、史上初めて日本の古典から引用されたという事も大変話題になりました。お陰で万葉集関運の本が売れまくっているそうです。
◆今回元号が変わる事をきっかけに、日本中が同じ方を向いて盛り上がっているように感じます。十月二十二日には「即位礼正殿の儀」が行われます。その日に日本中の各家庭全てが玄関先やベランダに日本国旗「日の丸」を掲げたらどんなに素晴らしい事でしょうか。国旗をお持ちで無い方、是非用意して一緒にお祝いしましょう。
◆今年も「羽村灯篭流し」が、八月三日(士)十八時三十分から宮ノ下運動公園にて行われます。今年で三十七回目となります。大勢の和尚による読経と、鎌倉流御詠歌の皆様の奉詠の中、多摩川に灯篭を流して供養するお盆の伝統行事です。家内安全、交通安全、青少年の健全育成などの祈願もいたします。
◆実行委員会の皆さんはこの日の為に二月から何度もの会合を行い、警察署や消防署、国土交通省、市役所等との協議を重ね、また炎天下での灯篭の販売等に励んで来られました。夕方の行事ですが当日は朝の八時から会場の準備をし、翌日も会場の清掃活動を行います。本当に大勢の協力によって成立する、とっても大変な、そして素晴らしい行事です。せっかくですから是非一人でも多くの方に御参加、御協力を頂きたいと思います。当日参加出来なくても、事前申込みで灯篭を流して供養して頂けます。一基千円です。詳細は各菩提寺にお尋ね下さい。なお雨天の場合は翌四日になります。
(禅林 恭山)
第152号 平成31年 春彼岸号
「平」和は「成」ったのか
平成という時代が終わろうとしています。
中国の古典「史記」から、平成という元号を引いて三十年。時の政府は「平らになる」「平和になる」という文字に願いを込めて、平成という元号を採用しました。それから三十年、果たして額面通りに平和はやってきたのでしょうか。
平成はその前の昭和に比べて、少しはマシな時代だったのでしょうか。
誰れでも平和に暮らしたい、平穏な日常を送りたいと思っています。戦争や災害のない世界であって欲しいと思っています。それでは例えば、隣の家の子は東大に合格し、自分の子は引き込もり、隣は家を新築し、自分は失業して家を売り払わざるを得ないとします。それでもあなたは心の平和を保てますか。この世の不条理、理不尽さに、腹を立てませんか。人は人、自分は自分と割り切って、他人の幸せを祝福することができますか。少しでも嫉妬心がある限り、心の平和はやってきません。家庭の平和も世界の平和も同じことです。世界の平和を叫ぶより、心の平和を保つことの方が難しいのです。
心の平和の大切さを伝えるため、近年日本からも鈴木大拙をはじめ、多くの仏教者が海を渡りました。異教徒に仏陀の教えを説き、仏教信者もできました。しかしながら、いまだ世界は平和とは言えません。独善的な無神論者や一神教の狂信者が、手前勝手な論理で、この地球を牛耳ろうとしているからです。慈悲心のない損得勘定だけの独裁者ほど、危険なものはありません。
日本も偉そうなことは言えません。子どもを虐待する親、善人をだます詐欺師、イジメに犯奔する若者、責任を取らない人、利益至上主義の企業。これらは平成の三十年に目立ってきたことです。仏陀が一切の苦の根源だと説いた自己愛の為せる姿です。
戦争のない状態が平和なのではなく、他の幸福を願う「菩薩として生きる」人々が地上に溢れた時、本当の平和がやってくるのだと思います。まだまだ時間がかかりそうです。
(禅福 泰文)
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その15
この時何をかもとむべき
寂滅現前するゆえに
当処すなわち蓮華国
この身すなわち仏なり
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)
◆意訳
「この上何を求めるのか。悟りの世界はすでに皆の自の前に広がっている。自分のいる場所が極楽なのであり、自分自身そのものが仏ではないか。」
寂滅(じゃくめつ)
死ぬことを寂滅とも言いますが、ここでは涅槃、仏教の目指す悟りの世界のこ
とを指しています。
禅の涅槃(悟り)とは
仏教や禅における涅槃、つまり悟りの境地とは一体どういう世界なのでしょうか。悟りを開く。何か言葉では言い表わすことができない不思議な力が自分自身に舞い降りて来るのか。空中浮遊できるようになるのか。百五十歳まで元気でいられるのか。未来を予知できるようになるのか。残念ながら禅の悟りというものは、そういった類いの非現実的な不思議な力を得るというものでないのです。仏教や禅の教えというのは、ある意味では非常に現実的なものです。
悟りと覚り
悟りは覚りとも書きます。つまり「目覚め」のことです。目覚めるということは、自分を取り囲んでいる世界が変わるということではありません。自分の身に起こったある経験を境にして、今迄の自分では見ることができなかったことが見えるようになる。あるいは感じることができなかった部分を感じれるようになるということです。例えるなら、重病を患った人が奇跡の復活を果たしてみると、毎年当たり前のように見ていた桜の花の美しさ、毎日顔を合わせていた家族の存在の尊さ、自分自身がしっかりと生きていることの素晴らしさに気づく(目覚める)ということでしょうか。
日常の中の好時節
禅の世界に「春に花あり、秋に月あり、夏に涼風あり、冬に雪あり、もし閑事の心頭にかかるなくんば、すなわち是れ人間の好時節」という言葉があります。あれやこれやとつまらぬ事を心に煩うことがなければ、春夏秋冬、季節を選ばず、年中が人間にとって好い季節である。という意味の言葉です。我々が社会の中で生きていく以上は、いくらかの不案や心配事がつきまとうこともあるでしょう。しかしながら、春の麗らかな陽気に出会ったり、ご家族皆様で過ごす時聞があったり、仲の良い友人たちと過ごす甘美な時聞があることも確かです。日常の中の素晴らしき時間をしみじみと味わうことができるのであれば、そここそが涅槃なのです。
(宗禅寺 高井和正)
禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第十二話
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。
「おくのほそ道」5
芭蕉の残した紀行文の中でも、最も著仰なものといえるのが、この「おくのほそ道」です。前回までこの作中の句を観ていきながら、その作風の変化をお話してきました。
旅の始めにあたり詠まれた句と、最後の句はどちらも「別れ」を題材としたものです。そこには大きな作風の違いがありました(前回参照)。この旅を通じて、芭蕉にどういった心境の変化があったのでしょうか?
以前「蕉風(しょうふう)」(芭蕉の作風)において「不易流行(ふえきりゅうこう)」という重要な価値感があるとお話しました(松尾芭蕉医9)。「不易」とは永遠不変の事。「流行」とは変わりゆく事です。我々は変わりゆくものの中で生きていますが、視点を大きくもてば、変わりゆく事実そのものが日常であり不変なのだという価値観です。宇宙的視点ともいえる壮大なスケールを持つ句を出羽(山形)から越後(新潟)の旅において残していて、それを我々に伝えています。
うってかわって、その後の旅では「別れ」がテーマとなったかの様に多くの別れを芭蕉は体験し、句に詠んでいきます。では「不易流行」はやめてしまったのでしょうか?そうではなく、宇宙的視点から人間を、自分自身を観て、句を詠んでいるのだと考えます。人生において「別れ」はつきものです。旅においては毎日が「別れ」の連続でしょう。この「おくのほそ道」に「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也」という序文を残した芭蕉も「人生=別れ」という思いを強く持っていたのだと思います。その「別れ」をことさら嘆き悲しむのではなく、「これもまた人生」という風にとらえ、受け入れていく。これが芭蕉のこの旅においてたどり着いた「かるみ」という境地なのです。それがこの旅の最初の句と最後の句にあらわされているのです。
ここで唐の詩人干武陵(うぶりょう)の詩と、井伏鱒ニ(いぶせますじ)の訳を紹介します。(後半のみ)
花発多風雨 花発(はなひら)けば風雨多し
人生足別離 人生 別離足(べつりた)る
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
以下次号(一峰 義紹)
禅寺雑記帳
◆私たちの宗派、臨済宗の僧侶がボランティアで運営する『吉縁会』という組織があります。いわゆる婚活を支援するも入会金や年会費、成婚費用などはので、一切掛かりません。これまでに一万八千人以上の会員がいて、八百組以上の結婚が成立しているそうです。
◆会の当日は、和菓子作り、坐禅、精進料理つくり、数珠作りなど毎回異なる体験を皆で行った後、異性の参加者と五分ずつの談話をしていく、という流れになっていて、この実費(三千円程度) のみが自己負担になります。
◆参加にはまず登録が必要です。登録の資格は、二十五歳から四十五歳までの男女で、インターネット、メールが使える事が条件になります。パソコンが無くてもスマートフォンが使えれば問題ありません。会からの連絡もすべてネットを介して行われ、郵便物が送られることはありません。
◆登録は指定された日時に、本人自身が指定のお寺へ行って担当の僧と会わなければならず、代理人では受け付けられません。また事前登録をネットで行う必要があります。ボランティアなのでいつでも行っている訳ではありません。事前登録は、先着順で締め切られます。一度登録すれば、日本の各地で開催される会への参加が可能になります。
◆次回東京地区の登録日は三月三十一日、事前のネットでの予約締切は三月二十九日となっています。興味のある方は『吉縁会』で検索してホlムベlジで詳細を確認下さい。すべてはそこに掲載されています。それを理解出来る事も参加資格の筈です。まずは一歩を踏み出してみましょう。
(禅林恭山)