慧光(えこう)

「慧光」は、東京都羽村市の臨済宗のお寺(一峰院、禅福寺、禅林寺、宗禅寺)で設立された「羽村臨済会」の季刊誌です。

第138号 平成27年 秋彼岸号

慧光138号

千二百年のお彼岸
禅林 啓純
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる 1
宗禅寺副住 高井和正
禅と共に歩んだ先人 出光佐三 第七話
一峰 副住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 啓純

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千二百年のお彼岸

千五百四十九年に初のキリスト教宣教師として日本にやってきたフランシスコザビエルは日本人へのキリスト教布教の戦略レポートをローマへ送っています。そこには当時の日本人の素晴らしさが沢山記されています。いくつかを要約します。「日本人は、自分が出会ったきた国々の中で最も優れている民族である」「日本人は悪意がなくて親しみやすく善良である」「多くの町民は読み書きが出来る」「名誉心が強く、他の何よりも名誉を重んじる」「多くの人は貧乏だが、貧乏は不名誉な事では無いと考え、堂々としている」「泥棒がいない」「太陽に誓うとして嘘は付かない」「社交性が高く知識欲が旺盛である」

こうしてみると四百六十六年も前の日本は、すでに素晴らしい道徳の国だったのがわかります。経済的には現代のほうがずっと豊かでしょうが、精神性、道徳の面では大きく後退してしまっているように感じます。

当時の日本人が高い道徳を持っていた理由の一つは、神や仏、先祖の霊といった目に見えないものを大切にしていたからでしょう。自然の恩恵で生活が出来る反面、その脅威に翻弄される事も同時にある中で、お祭りやお正月、お盆、お彼岸といった目にみえないものと向き合う節目の行事を大切につとめる中で、お蔭様という謙虚さと道徳心が自然と身についたのではないでしょうか。

日本で最初にお彼岸の法要が行われたのは八百六年(千二百九年前)だそうです。以来私たちの先祖はずうっと、お彼岸を大事にしてきました。

今年の秋のお彼岸はシルバーウィーク、五連休になり海外や国内の旅行に出かける方も多いと思いますが、千二百年にわたって遺伝子に刷り込まれてきた「お彼岸」を、日本人として大事にして頂きたいと思います。良いお彼岸を過ごしまう
(禅林 啓純)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その1

平成二十九年は白隠禅師が亡くなられてから二百五十年という節目の年になります。臨済宗の名にもなった臨済禅師は来年で没後千百五十年、臨済宗では十四の各本山が協力をして、様々な行事を開催する予定です、来年の十月二十九日、三十日に鎌倉にて千人規模の大坐禅会が開催される予定です。その節目を迎えるにあたり、今号より白隠禅師の遣された「坐禅和讃」というお経を一緒に読んで参りたいと思います。

白隠慧鶴禅師(正宗国師)(はくいんえかくぜんじ)
江戸時代の禅僧で静岡県は沼津、原の出身。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謡われ、私が過ごした三島の龍澤寺の開山様でもあります。沼津・三島地域においてその知名度はずば抜けており地元の酒造会が「白隠正宗」という地酒を販売しているほどで、我々臨済宗の中でも「臨済宗中興の祖」とされているほどの高僧です。

禅の歴史を遡っていくと、とある一つの説話に辿り着きます。

ある日、お釈迦様が無言で弟子たちに向かって金色の芯を高くかざし、その意を問うたのです。説法なので何かお言葉を期待していたお弟子さんたちは一同困惑致しましたが、その中で魔訶迦葉おひとりのみが高くかざされたその芯を見て、にっこりと微笑みました。
ここに仏教における禅の原点があります。

禅の教えは以心伝心、心を以って心に伝えるものとされています。それは文字や言葉によって誰かから教えられるものではなく、自らが工夫をして実践をすることによって自らの心に安心を獲得することが肝要になります。

白隠禅師が中興の祖とされる所以は修行者の工夫の拠り所としての公案を絶対的な安心を得る方便として体系的に組織化させた点にあります。つまり、禅の志を持った修行者が誰でも同じように公案に向かって行けば悟りを得ることができる体系を作ってくださったということです。

白隠禅師は妙心寺派の和尚でありましたが、本山の違いに限らず、この体系は現在臨済宗のすべての修行道場の指導者である師家に受け継がれ、白隠禅師の遺された公案体系によってすべての修行者が禅を学んでいます。禅の指導者である師家は修行者の器量に応じて、公案を用いて修行者を安心の境地に至らしめようと道を示します。二十一世紀を迎えた今日も、禅の道場では昼夜を問わず禅修行者達は公案に参じています。
(宗禅寺 副住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 出光佐三(いでみつさぞう)第七話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、戦前・戦中・戦後の日本の石油流通を支え、この国の発展に尽力した、今に続く「出光興産」の創業者である「出光佐三」の七回目をお話したいと思います。

日章丸事件3(にっしょうまるじけん)
イランからの石油を数々の難関を乗り越えて無事日本〈届けた日章丸とその乗組員でしたが、案の上、英国企業から積み荷差し押さえの請求がだされ、早速帰還当日の午後から裁判が始まりました。イランの石油の権利は全てこちらにあると主張する英国企業に対し、独立国家であるイランには当然その国で産出された資源を処分する権利があると主張する出光は真向から対立しました。予定通り閉廷した後、佐三は荷揚げを急ぐ日章丸へ行き、乗組員を前に、こう話しました。

(すこし長いのですが紹介します。)
「日本は資源が貧困で、人口も急増している。産業の合理化は急務中の急務だ。イランの大油田と直結し燃料国策を確立して、産業の合理化を助ける。これは天与の絶好の機会であり、国民の自由である。イラン石油の輸入は堂々天下の公道を闊歩(かっぽ)するもので、天下に何ひとつはばかることもない。ただ敗戦の傷の癒えぬ日本は正義の主張さえ遠慮がちであるが、いま言った理由から、日本国民として俯仰(ふぎょう)天地に愧じ(はじ)ざることを誓うものである。この問題が提訴されたことは、天下にわれわれの主張を表する機会を与えられたわけで、むしろ悦ばなければならない。」

GHQの戦後処理も終り、独立国家としての道を歩みはじめた日本でしたが、敗戦のショックに未だあえいでいる状態でした。巷には今日の食事にもありつけぬ飢えた人々があふれ、粗末なあばら家同然の家で風雨をしのぎ、粗末な衣服をまとい、死に物狂いで働くしかない状態で、日本はどうなるのかという不安が国中に蔓延(まんえん)していました。そういった中でのこのニュースは日本の国民に大きな勇気を与えました。英国という大国の威圧に臆する事なく正義を主張する姿に多くの人が日本人としての誇りを取り戻す想いを抱いたのです。

裁判は出光側の全面勝利で終りました。イランとの取引が続けられる事になった出光は早速第二便をイランに送ります。ここで日章丸は熱狂的に迎えられます。英国を畏れず、共に戦ってくれた同志として、窮地に手を差し伸べてくれた恩人として最大級の待遇を受けたのでした。この日章丸事件を通じ、日本は信義を重んじる固としてイランの人々に強く、深く印象付けられたのです。
(一峰 副住 義紹)

禅寺雑記帳

■今夏は戦後七十年の節目でした。この戦争で亡くなられた全ての方のご冥福をお祈りいたします。合掌。

■戦争が終わって十年後の昭和三十年にインドネシアのバンドンで、第一回アジア・アフリカ会議、通称バンドン会議が行われました。第二次大戦後に欧米の植民地支配から独立したアジアとアフリカの二十九の国が参加したこの会議上で、日本は参加した国々がら賞賛されたのだそうです。

■「日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。それにあの時出した『大東亜共同宣言』がよかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。『アジア民族のための日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く』と、大変なもて方であった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ」と、外務大臣代理で
出席した加瀬俊一氏はその様子を語ってます。この会議には中国の周恩来も出席していました。

■今年四月にはこの会議から六十周年の記念会議も開催されたのですが、第一回のこの話は全く報道されませんでした。この事実を凍結して、首相がただ反省を口にしてそれのみが報道されたら、やはり日本が悪かったから戦争がおきた、と結論づけられてしまいます。「日本のおかげで」の話は、戦死した方々にとって、ご遺族にとってそして我々日本人皆にとって、何よりの慰みになる話です。こうした事実もある事を、もっと報道して欲しいと思います。

■夏休み、息子達と川遊びをしました。私が子供の頃は毎日のように皆が川で遊んだものですが羽村市では現在子供だけで川へ行つてはいけないとのお達しがあるそうで、大人が一緒でないと行けないのです。その分ゲーム機で安全に(?)遊ぶのでしょう。川で遊ぶことは沢山あるので残念に思います。小さい魚でもつかんだ時には思いがけない躍動感があり、生命の尊さ、重さを知ることが出来ます。今日、簡単に人の命を奪ってしまう事件が後を絶ちませんが、川遊びや原っぱでの虫取りが出来ず、ゲーム上のみで命のやりとりをしている事にその一因があるといったら言い過ぎでしょうか。

■川のせせらぎ、鳥の声、炎天下でも涼しく吹き渡る風、真っ青な空、もくもく白い入道雲、オレンジに燃える夕焼け、にわかにかき曇り降り出す夕立等、こういう素晴らしい自然の中で遊び、感じるからこそ、故郷への思い、地域愛が生まれるのではないかと思います。大人の事情で子供にしか無い感性で川から学ぶ素晴らしい機会を奪ってしまっているのは本当に残念です。
(禅林 啓純)