慧光(えこう)

「慧光」は、東京都羽村市の臨済宗のお寺(一峰院、禅福寺、禅林寺、宗禅寺)で設立された「羽村臨済会」の季刊誌です。

第144号 平成29年 春彼岸

慧光144号

「看却下」ー己自身を知る
一峰 小住 義紹
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺副住 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 小住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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道はちかきにあり

ブータン王国という国を皆さんご存じかと思います。インドとチベットにはさまれた山奥の小国です。農業が主要産業で、水力発電によって得た電力を輸出して外貨を稼いではいますが、世界的にみても貧しい国の一つです。この国は政策として「国民総幸福(GNH)」というものを掲げ、経済発展ではない、近代化でもない道を選びました。実際に数年前の国民アンケートでは90%以上の人が「私は幸せだ」と答えた様です。

しかしその状況が変わりつつある様です。国がさらに貧しくなってしまった訳ではなく、むしろ経済的には発展しています。少しずつですが近代化もされています。けれども実はそれが、ブータンの人々の幸福を蝕(むしば)んでいったのです。経済発展により格差が生れ、稼ぎの少い農業に若者は従事しなくなりました。かといって仕事がある訳でもなく、失業者が大幅に増えました。隣国であるインドにより近代化が進んでいますが、そこで働いているのはインドから来た労働者ばかりで入り込む余地が無いのです。さらに近代化により、多くの情報が得られる様になったために、インドとプータン、他の国とブータンの生活格差を知る事となってしまったことも多くの人々の不満をあおっています。結果、幸せを感じる人の割合は下がってきてしまいました。

「幸せ」とは何でしょうか?それは自分自身が「私は幸せだ」と思うこと、感じることに他なりません。他人に決めてもらうものではないのです。他者と比べて自分はどうか?この思いにとらわれれば欲望が生れ、その欲望はとどまる事はありません。一つの欲望を満たして得られた満足は一時的なもので、また新たな欲望が生じてしまうからです。これでは欲望の奴隷となったも同然で「幸せ」とは程遠いものとなってしまいます。

「看却下」という禅語があります。脚(あし)下(もと)を看よ-つまり自分自身をみつめ直せという言葉です。情報のあふれる今の日本では実は難しい事なのかもしれません。たまには静かな環境に身を置いて、自らに「幸せか?」と問いかけてみてはいかがでしょう。
(一峰 小住 義紹)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その7

夫れ摩訶衍(まかえん)の禅定は
称歎(しようたん)するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜(しょはらみつ)
念仏・機悔・修行等
其品多き諸善行
みなこの中に帰するなり
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

※摩訶衍(まかえん)
言語のマハlヤナを漢訳した言葉です。ここでは大乗仏教をさしています。大乗は大きな乗り物という意味で、広く一般の民衆をも仏教で救われるという考え方です。白隠禅師もまた、坐禅によって出家者のみならず、在家の皆様も救われると考えておりました。

◆意訳
「大乗仏教の心を落ち着かせる坐禅による禅定こそが何物にも変え難い最上のものである。様々な善行修行があるが、それらも禅定があればこそのものなのだ」

仏教には悟りに到達するための様々な仏行があります。ちょうどお彼岸を迎えました。お彼岸はお墓参りに行き、ご先祖様にご挨拶をするという習慣が一般的ですが、本来はお中日に先祖供養の法要を行い、残りの六日間で六つの修行徳目(布施・持戒・精進・忍辱・禅定・智慧)を修めて悟りに達しようという仏教週間です。その六つの徳目の一つにも禅定ということばが入っています。

禅定(ぜんじよう)とは?
禅定の基本は坐禅による精神集中になります。我々の目の前には日頃から常にたくさんの情報が飛び交っています。心の中は都会の雑踏のような状態ですから注意が色々な所に向いてしまいます。そうした雑多な情報をすべて遮断して一つの対象に集中させるということです。精神集中というと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、皆様も日頃から、自動車や自転車の運転、お料理やお勉強、読書など、自分の精神を集中させているはずです。その集中した精神作用を禅定というのです。

日常の生活行為や科学技術の研究・発展、スポーツや芸術などの文化活動に到るまで、人間のあらゆる行いは、そうした集中した精神作用、禅定からもたらされているものだと言えることができるでしょう。

白隠禅師は坐禅によって出家在家にかかわらず、誰しもが禅定の力を得ることができると信じておりました。

坐禅は姿勢を正して坐り、丹田(下腹)からの深い呼吸を繰り返して行うものです。ただただ、自分の呼吸のみに没頭していくのです。自分の呼吸に没頭していくと、仕事や家庭でのしがらみを離れた、本当の自分に出会えます。坐禅の素晴らしい世界を味わっていただければ有難いです。
(宗禅寺 福住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第四話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳詰(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。

貞門派(ていもんは)
前回、俳諧の成り立ちと、それ以後の発展をお話ししましたが、その発展の基礎を築いたといえるのが「松永貞徳」を祖とする「貞門派」といえます。芭蕉の俳諧における師となります北村季吟も貞門派の一人でしたので、芭蕉の俳句の入り口は貞門派だったのでした。その特徴は「言葉あそび」といわれるもので、その芸術性には限界があるといわざるを得ないものでした。

蕉風 続き
松永貞徳を祖とする「貞門派」においのちて俳階の道に入り、江戸に下って後は西山宗因率いる「談林派」の影響を強く受けてその道を遁進(まいしん)していた芭蕉でしたが表現の壁につきあたり、それ迄のものとは違う独自の表現を模索していたところ仏項禅師に出会い、その薫陶を受ける事により、新たな俳階への道がみえてきたところまでが前回のお話でした。「俳階は気先を以て無分別に作るべし」と、弟子達と丁々発止の句会を行い始めたのも、「活溌溌地(かっぱつはっち)」という言葉に代表される臨済禅の重んじる瞬発力を俳階に生かそうと考えたからかと思われます。また芭蕉は禅師に会う前から古代中国の思想家路引の書「荘子」に健倒していましたが、その理解は滑稽本ととらえてのものでしかなかったのですが、禅の薫陶を受けて後は「荘子」の持つ世界への理解が深まり、それもまた芭蕉に大きな影響を与えたのです。老子・荘子に代表される「老荘思想」の世界観は中国で生れた禅宗のバックボーン(背骨)ともいえるものですので当然ともいえるでしょう。ちなみに仏項禅師は四十一才にして弟子に寺を譲り放浪行脚(ほうろうあんぎや)の旅に出ました。この生き様もまた、芭蕉に影響を与えたかもしれません。

住としていた芭蕉庵が消失してしまいまた禅師の薫陶や「荘子」の影響で「無常観」といったものを強く感じる様になった芭蕉は頻繁に旅に出る様になります。そしてその旅先で見た事、聞いた事、体験した事、さらにそこで詠んだ俳句を紀行文として多く残しました。一番有名なのは「おくのほそ道」ですが、最初の記行文は「野ざらし紀行」となります。これは芭蕉が仏頂禅師と同じ四十一才の時に行った旅を-記したものですが、この旅において芭蕉の俳諸に一つの答えといえるものが確立されました。「蕉風(もしくは正風俳譜)」と呼ばれる事になる芭蕉独自のスタイルはそれまで隆盛を誇ってきた談林派にかわって俳詣の主流となり、またそれまで、低くみられていた俳請の地位を上げ、芸術性の高さを認められるに至りました。以下次号

・野ざらしを心に風のしむ身かな
・道のべの木槿は馬に食はれしむ
・馬に寝て残夢月遠し茶の煙

「野ざらし紀行」より
(一峰 小柱 義紹)

禅寺雑記帳

◆暑さ寒さも彼岸まで」、とは良く言ったもので、この時期になると寒さもひと段落し、ほっとします。しかし年度が変
わる時期でもあり、生活環境が大きく変化する方も多いことでしょう。また花粉症の方にとっては一年中で一番憂欝な時期の筈です。春は精神的にも肉体的にも大きく負担のかかる季節、どうか皆様の心身が健やかでありますように。

◆一万五千人以上の方が亡くなり、福島第一原発事故の起きたあの東日本大震災から丸六年となり、犠牲になられた方は七回忌を迎えました。未だに七万人以上が仮設住宅での生活を余儀なくされており、行方不明の方が二千人以上もおられるそうです。あの時から時間が止まったままという方もいらっしゃることでしょう。あらためて亡Kなられた方々の御冥福をお祈りし、被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。

◆アメリカではトランプ政権が動き出しました。あの方の言動を見ているとこの先、カッとなっていきなり核のスイッチに手を伸ばすことさえあり得る気がします。自然災害も怖いですが、これは誰にもどうしょうもないことです。しかし指導者が誤った判断で起こす人災や混乱は有って欲しくないものです。任期の四年が無事でありますように。

◆今年のNHKの大河ドラマ『おんな城主直虎』は、戦国時代、井伊家の断絶を救った女性武将、井伊直虎の生涯を描いています。(女性では無かったという説もあるそうですが。)-昨年の『真田丸』が傑作でしたので視聴率ではやや苦戦しているそうですが、劇中に登場する寺は皆、我が臨済宗の寺院ですので、是非ご覧頂きたいと思います。

◆訳あって尼僧となった主人公のいる寺は龍揮寺(りょうたんじ)、井伊家の菩提寺で、妙心寺派です。劇中、禅問答を使ったセリフも度々出てきます。今川家の人質となっている徳川家康のいる寺は臨済寺、今でも雲水が修行をしている道場があります。

◆井伊家、今川家に限らず、戦国時代の有力な武将のブレーンは、殆ど臨済宗の僧が務めています。当時の寺は、現代で
言うと士宮学校やビジネス学校のような役割も持っていました。仏教書だけでなく、『論語』や『孟子』を含む『四書五経』といわれる儒学や、有名な『孫子』を含む『武経七書』といった兵法書まで読まれていたのです。

◆当時日本で一番のエリートが臨済宗の僧でした。各地で武将を精神的に支え、また領国の経営や政治、戦術の師でもあったのです。

◆臨済宗が日本という国の在り様にこれまで大きく関わっていた事を誇りに思うと同時に、今でもそうであるように精進せねばと思う次第です。
(禅林 恭山)