慧光(えこう)

「慧光」は、東京都羽村市の臨済宗のお寺(一峰院、禅福寺、禅林寺、宗禅寺)で設立された「羽村臨済会」の季刊誌です。

第146号 平成29年 秋彼岸号

慧光146号

今年の夏をふりかえる
宗禅寺 高井正俊
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺住職 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

画像をクリックするとPDFをご覧いただけます

今年の夏をふりかえる

気候変動の激しかった夏、16日間連続の雨、その中で8月5日には、羽村とうろう流しの第三十五回が、禅福寺田島和尚のもと、挙行されました。

個人的に私にとって、今年の夏は特別のものとなりました。7月5日から9日間のイスラエル巡礼、8月6日の長野松本の浅間温泉、新宮字さんの第二十回目開催の原爆忌への表敬訪問。5月27日に宗禅寺の住職を和正和尚に譲ったので、責任を若和尚に託してできたことです。

イスラエルに行ったのは、鎌倉のカトリック雪の下教会の山口神父さんからのお誘いによります。鎌倉では宗教者会議といって、神道・仏教・キリスト教の三者が3・11の追悼復興法要、各宗教の勉強会、交流の集いを行っています。交流から、キリスト教のミサやイエスキリストそのものを現地イスラエルで体験し、この目で確かめたくなりました。

テルアビブから若いキリストが伝道布教に励んだガリラヤ湖周辺、山上の垂訓教会(狭き門より入れ、求めよされば与えられんの教会)やパンと魚の教会、ユダヤ教の会堂跡をみて、カナやナザレの受胎告知教会、死海の浮遊体験、マサダ、クムラン、そしてエルサレムのキリストが十字架を背負って歩いた道、ヴェルツヘムの生誕教会等を巡礼してきました。

キリスト教とイスラム教は共にユダヤ教の中から生まれています。ユダヤ民族・アラブ民族・ゲルマン民族など、宗教と民族の混淆を見せてもらいました。緊張の中の平和、何かあると暴力事件が起きそうです。ただ観光客が直接被害をうけることはなさそうでした。

神宮寺さんの原爆忌は以前から行きたかった所で、やっと行くことができました。丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」15部作から「幽霊」と「灯篭流し」が、「沖縄戦の図」から米軍が初めて上陸した読谷村の「残波大獅子太鼓」の計三作品が本堂に展示され、その中で金城実さんと高橋住職の対談を間近に見聞しました。特に、沖縄が受けた地上戦のことが心にのこりました。兵隊だけでなく、沖縄の住民が否応なく戦に巻き込まれ、悲惨な体験をさせられました。この事は、沖縄の人にしか解らないものです。本土や内地にいる人達の戦争体験とは比べようもないものです。沖縄が受けたこの事実を、私たちはしかと見つめなければいけないでしょう。

イスラエルのユダヤ教、イスラム教、キリスト教、そして民族の対立。この中からだからこそ、平和が切実に求められるのだろうと思います。日本の場合は、終戦記念日・原爆・沖縄から平和への意識が求められます。

 この地には「横田基地」もあります。北朝鮮とアメリカとの対立もますます激しくなってきています。

 戦後72年、日本は与えられた平和のおかげで発展し、豊かな生活を送ることができました。今こそ、地上戦の苦しみをしっかり受け止めるからこそ、平和の有り難さと維持が必要になってきます。与えられた平和を保つために何をしなければいけないのでしょうか?

(宗禅寺 高井正俊)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その9

辱(かたじけ)なくも此の法(のり)を一たび耳にふるる時
讃嘆随喜(さんたんずいき)する人は福を得(う)ること限りなし
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

◆意訳
有り難いことにこの教えを一度でも耳に触れる機会をいただき深く信じて受け入れられる人は必ず幸福を得ることでしょう

純一無難の心
「じゅんいつむざつ」あるいは「じゅんいつむぞう」と読みます。雑味がなく純粋一途な心の姿を表している言葉です。私が三島瀧澤寺でおせわになった亡き死活庵中川球童老師が、入門当初の私に口を酸っぱくして言い聞かせて下さった言葉でもあります。「ええかい、修行の第一歩は純一無雑からじゃぜ。先輩から言われたら、はい!と、返事して、余計なことを考えずに言われた通りにやるんじゃ」。聞かされていた当初は、そんなに何遍もおっしゃらなくてもと思っていましたが、日々を過ごすうちに老師の言葉の重みを感じるようになりました。

人生の出会い
我々の日々の生活の中には必ず出会いがあります。皆様が自分の人生を振り返ってみても、「この出会いが私の人生を変えた」と思えるものが必ずあるものではないでしょうか。そして、その出会いは人間同士の出会いばかりではないように思います。白隠禅師にとっては一枚の地獄絵図がそうであったように、絵画や音楽、一冊の本、普段何とも思ってなかった両親や友人の何気ない一言や非日常的な場所での体験など、その出会いは人によって様々だと思います。もしかすると、我々は自分の人生を変えるようなものに出会っていながら、それに気づいていない場合もあるのではないでしょうか。

私は親戚でもある、市内の禅林寺様からのご縁で宗禅寺にやってきました。初めて禅林寺様にお会いしたのは、母方の祖母の葬儀式でのことだったように記憶しております。そのときは私も中学生でしたので、普段あまりお会いしない親戚の方という認識しかありませんでした。まさか、このような深い関りを持つことになるとは思ってもいませんでした。出会いとは分からないものです。

人生は一瞬で変わる
白隠禅師は一たび耳にふるる時、つまり我々が初めて出会った時に讃嘆随喜できる心の状態でいるのかどうかを我々に説いて下さっているように思います。日頃から自分の心を常に純一無雑にしていれば、つまらない観念に縛られることなく、素晴らしい人生が待っていることを伝えて下さっているような気が致します。

(宗禅寺 住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第六話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。

「野ざらし紀行」続き
芭蕉はその生涯において多くの紀行文(旅に出てその土地の文化や風習などを紹介する文)を残していますが、その最初となるのが、この「野ざらし紀行」でした。旅立つにあたり禅的悟りを得んと覚悟し、実際この旅館で芭蕉の作風が徐々にかわっていき、のちに「蕉風」と呼ばれることになる自らのスタイルを確立させたという事。また「物我一致」という境涯を得て、それが作風の変化に大きく寄与したと前回述べました。「物我一致」とは「物(自分以外のもの、つまり対象)と「我」を分けない、つまり「無分別」の境涯をいいます。無分別とは自分の無い状態、つまり無我の境地でそこに物だけが残る、自らが物になりきる。これが「物我一致」の境涯です。

海暮れて 鴨の声 ほのかに白し
これは尾張(現代の愛知県東部)の海を見て詠んだ句です。五・七・五が俳句の定型ですが、これは五・五・七と破調となっています。定型通りとすれば「海暮れてほのかに白し鴨の声」となり、これでも良い句といえそうですが、これでは白いのは鴨の声となってしまいます。実際そう解釈する向きもあります。詩人的表現によって鴨の声を視覚化したものとする解釈です。しかしそれではあえて破調にする理由が無くなってしまいます。「海暮れて」と入り、すぐに「鴨の声」とくる事によって聞き手はクーックーッという鴨の鳴き声を思い浮かべます(鴨の姿では無い)。さらにそこで「ほのかに白し」と来る事で聞き手はうすぼんやりとした白い色を脳裏に浮かべます。この順で詠む事により、うすぼんやりとした霞の中からクーックーッという鴨の声が聞こえて来る情景を表現したと考えるべきかと思います。そう考えた時に上の句の「海暮れて」は状況説明的なもので分別的になりますが、「鴨の声」はまさに「鴨の声」でしかなく、「ほのかに白し」もまさにそれだけになります。芭蕉自身クーックーッ、という声になり、また白になりきった無分別の境涯を詠んだものと思います。先に著した「海暮れてほのかに白し鴨の声」では分別から離れられず、その状況にいる芭蕉自体を想像させられますが、その違いにこそ、芭蕉がこの旅で得た「物我一致(一智)の境涯を感じます。
以下次号
(一峰 義紹)

禅寺雑記帳

◆早くも秋のお彼岸となりました。二ヶ月表示のカレンダーは、あと一回しかめくることが出来ません。終わりよければすべて良し、2017年は良い年だったと振り返られるように、残りの日々を大事に過ごして行きましょう。

◆今年の夏は本当に異常気象で、日本でも世界でも記録的な豪雨による甚大な被害が多発
しました。被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。

◆八月の東京都心は日照時間が史上最短だったとの事。雨が降らなかった日が4日しかなく、農作物への悪影響や、レジャーなどで期待された消費が見込めなかったなどの被害も相当だと思います。夏は夏らしく、適度に暑くあって欲しいとつくづく感じました。このお彼岸は穏やかな、良い秋でありますように。

◆とはいっても、豪雨や地震といった天災は人間の力ではどうしようもなく、仕方がないとあきらめるしかりません。しかし人の頭越しにミサイルを打って来る独裁者による人災は勘弁してほしいものです。ミサイルの実験が上手くいくは限らず、途中で落下する可能性もありますし、飛行機や漁船にぶつかる事も考えられます。何があっても責任を取るつもりも反省の言葉も無いことでしょう。あの行動で、国民が幸せになれる筈がありません。誰が得をするのでしょうか。

◆来年開催されるサッカーのワールドカップ決勝大会に、日本が堂々と進出を決めました。自分が勝ったように嬉しく思います。文明のある現代、戦争によって命を奪い合う愚かさを捨てて、国と国はスポーツによって正々堂々と戦って欲しいものです。

◆決勝大会進出を決めたオーストラリア戦で2点目のゴールを決めた井手口選手は、21歳の若さですが既婚で、娘さんもいるそうです。奥様は母親が病気で余命半年と宣告された際に、安心させる為に結婚したとスポーツ紙にありました。

◆井手口選手は「嫁と娘は俺が守る!という気持ちはでかい。自分のために、というより、誰かのための方が頑張れる」と語ったそうです。さすが日本の代表、人柄も素晴らしいではありませんか。

◆誰かの為にと頑張ることが、すなわち自分の為になる、これは仏教の『自利利他』です。自分を高めれば、他人や世の中に対してより役に立つ事が出来るのです。

◆先の井手口選手の活躍は、亡くなられたお義母様にとって本当に誇らしく、何よりの供養になった筈です。お彼岸は先祖を敬い、自分を高めて今日命のある事に感謝を捧げる仏教徒にとって大事な期間です。私達はそれぞれ、生きている限り先祖の「代表」です。相応しい生き方をしているか、この期間に見つめていきましょう。
(禅林恭山)