慧光(えこう)

「慧光」は、東京都羽村市の臨済宗のお寺(一峰院、禅福寺、禅林寺、宗禅寺)で設立された「羽村臨済会」の季刊誌です。

第154号 令和元年 秋彼岸号

慧光153号

「餓鬼道」に墜ちないように
一峰 義紹
鎌倉御詠歌を味わう1
宗禅寺 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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「餓鬼道」に墜ちないように

先日、美濃の正眼僧堂(しょうげんそうどう)の日々の生活の様子を取材した番組が放送されてましたので興味深く拝見しました。

僧堂での食事では喋ることはおろか物音一つ立ててはいけません。箸を置く音タクアンを噛む音にも細心の注意を払います。自分自身が雲水として修行しておりました時は「そんなものなのかな」と思いながら食事をいただいていましたが正眼僧堂の師家である山川宗玄老師がおっしゃるには「餓鬼道」に墜ちた餓鬼に食事をしていることを覚らせないためだとの事でした。

餓鬼はものを食べる事ができません。目の前にはおいしそうなものが沢山あるのに、いざ食べようとすると炎に変ってしまうのです。いつもお腹を空かせている餓鬼は他人の食事に敏感です。人が食べている姿をみつけたら「おまえらだけおいしいものを食べてるなあ」と羨ましがり、嫉妬してさらに苦しむことになります、餓鬼をさらに苦しめない様に静かに、ひっそりと僧堂において食事はなされているのです。

現代はSNSが大流行りです。そこでは誰もが多数の人に情報を発信する事ができます。多くの人が自らをアピールしています。やれ「何を食べた」「何を買った」「どこどこに行った」などと他人に知ってもらってどうするのかと疑問に思ってしまう事も発信されているようです。結果それは他人の嫉妬心を煽り「なら私はもっと」とエスカレートしていきます。なんだか不毛に感じます。嫉妬は地獄の入り口です。心に生じたはじめは小さなものでもどんどん肥大し自分自身が嫉妬心に支配されてしまうまでになってしまい平穏な日常とは程遠いものとなります。だからこそ他人に嫉妬心を起こさせないようにする事も大切なのです。そう心掛けて生きる事で自らも嫉妬心に悩まされる事が減っていきます。餓鬼を想いながら食事をすれば自ずと感謝の念も湧き、施すことの大切さも覚えるでしょう。「餓鬼道」に堕ちないようにと。
(一峰 義紹)

鎌倉御詠歌を味わう1

今号より鎌倉流御詠歌を一緒に読み進めてまいります。第一回の今号は「建長寺の由来和歌」です。

◆建長寺由来和讃
帰命頂来(きみょうちょうらい)建長寺
開山大覚禅師(だいかくぜんじ)には
広くこの世の人々に
禅道(みち)を弘めん心より
八重の潮路をわたり越え
遠く宋より来給えり
時頼ふかくよろこびて
その御徳に慕いより
時の後深帝(みかど)に聞こえ上げ
身代わり地蔵の由緒ある
地獄の刑谷(たに)を切り拓き
建長五年の霜月に
この建長寺(みてら)をば営みて
禅師を初祖となし給う
星はうつりて七百年
世間をてらす法の灯は
巨福のやまのいただきに
真如の月とかがやきて
清く気高く今もなお
不滅の光を放つなり

建長寺は鎌倉幕府第五代執権、北条時頼公により千二百五十三年に創建されました。それまで罪人を処刑し埋葬する地獄谷と呼ばれていた場所です。お地蔵様は地獄からも人々を救ってくださるということで、心平寺という小じんまりした地蔵堂があった場所でした。この因縁により、今も建長寺のご本尊様し地蔵菩薩となっています。

創建の時は鎌倉に都がおかれてから、およそ六十年後のことです。それまでの京都の平安貴族ではなく、鎌倉の武士が世の中をリードしていく時代の転換点でもありました。元々時頼公は仏教に深く帰依をされていましたが、時代を引っ張っていく新しい世代の人材育成に、大陸から入ってきた当時の最先端の禅の教えを、という強い信念のもと建長寺を創建されたことになります。禅の指南役には時頼公は当初、道元禅師の招聘を考えられておりましたが、ご高齢もあり断念せざるを得ませんでした。

一方の蘭渓道隆禅師は中国重慶のご出身。成都で得度され、千二百四十六年、三十三歳にて禅の布教のため日本にやってきます。博多から京都に滞在しておりましたが、既に多くの仏教寺院が立ち並ぶ京都において、自らの禅の道を説く余地がないと御判断され、時頼公の招きにより鎌倉に来られるのです。

巨福山(こぶくざん)建長寺は、新しい時代を切り開いていこうという時頼公と、禅の教えを広めていきたいという道隆禅師、二人の情熱が見事に合わさり創建され、禅の教えは鎌倉から日本全国に伝わり、今もその法脈は途絶えていません。
(宗禅寺 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 あとがき

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。

前回で一旦この項はおわりとさせていただきましたが、あとがきとしてもう少しお話させていただきます。

子規と芭蕉
現代に続く「俳句」の隆勢の礎を築いたのは明治期に活躍した「正岡子規」にほかなりません。当時の俳諧は芭蕉を神格化し、芭蕉の句であればなんでも有難ならへがって、それに倣って句を創るといった風で百年以上も停滞していたのでした。その状況に「このままでは俳諧は滅んでしまう」と危機感を覚えた子規は旧態依然とした俳句界を徹底的に批判しました。

「陣腐(ちんぷ)」「月並み」といった言葉でバッサリと切り捨て、返す刀で彼らの教祖ともいえる芭蕉も切り捨てたのでした。一つ一つの句について、これは良い、これは悪いと評したのです。それは確固とした子規の「俳句観」があればこそといえるでしょう。「俳句」という言葉も子規が最初になります。子規はそれまでの俳諧は連歌の「発句」という体で詠まれている事を否定し、五・七・五の部分だけで完結する「俳句」を提唱しました。さらに技巧的なもの装飾的なものを排し、写生的に詠むことを良しとしたのでした。

かなり過激に自らを主張する子規とは手法は違いますが、芭蕉もそれまでの俳諧を否定し、「蕉風」を確立した訳ですので新たな価値観を持って来たという点で両者は同じです。子規によって新風を吹き込まれた俳句界はにわかに活気を取りもどし、現在につながっています。俳諧の命を永らえさせたという功績だけでも子規のなした事は偉業といえますが、反面芭蕉の評価はどうなったでしょう?

子規は芭蕉の詩情性を高く評価していましたが少し理解が足りなかった様に思われます。そこに禅的境涯という太い柱が欠けているからです(あえて禅的なものを無視したのかもしれませんが)。

活気づいた俳界には多くの才能が集まり、今日まで続いていますが、禅的境涯とは遠くへだたってしまった様におもわれます。臨済禅への深い理解をもった人が芭蕉を再評価してくれているのが救いでしょうか。
(一峰 義紹)

禅寺雑記帳

◆この夏も豪雨による甚大な被害が各地で起こりました。被害に遭われた方々に謹んでお見舞いを申し上げます。

◆極楽浄土は西にあるといわれ、太陽が真西に沈む春分、秋分の日に先祖供養を行うとその功徳が向こう側(=彼岸)の浄土に届きやすいと考えて春秋の彼岸の行事が行われるようになったといわれます。日本で最初の彼岸供養は西暦八百六年と記録がありますから、千二百年以上も彼岸は続けられて来たことになります。さらに二百年前の、六百六年から行われてきたお盆の行事とともに、これからも途切れることがないように伝えていきたいものです。

◆これだけの伝統がある国は日本だけだと思います。その伝統は、神と仏を大事にすることで続いて来ました。年間三千万人以上にのぼる外国人観光客のお目当ても、こうした伝統を感じられる神社仏閣や、世界一美味しい和食も含めた日本文化、四季折々美しい自然の風景なのです。私たちは本当に素晴らしい、世界一の国に住んでいるのです。英語教育に力を注ぐ事よりも、日本に生まれ、生きられる事がどれだけ素晴らしい事かを自覚出来る教育をして欲しいと思います。それが愛国心にもつながる筈です。

◆日本では戦後、愛国心という言葉が、あぶないものであるかのように扱われてきました。学校で国歌「君が代」の時に起立しない、歌わない教師がいたり、国旗「日の丸」を軍国主義の象徴だとして排除する動きが公に存在したのです。

◆愛国心は「ナショナリズム」と「パトリオテイズム」という二つの意味を含んでいます。「ナショナリズム」は民族主義、国粋主義、自国ファースト、といったところでしょうか。これに対して「パトリオテイズムは、郷土愛、祖国愛を表す言葉です。祖国への誇りや愛情を国民が持たなかったら、その国の未来は無いと同じです。大東亜戦争の敗戦国である日本は、行き過ぎた「ナショナリズム」によって戦争へ走ったとの反省から、「パトリオテイズム」も含んだ愛国心を悪い事だとして排除して来たのです。愛国心を教えない国は、世界中で日本だけです。

◆現在、小中学生が山や川で遊ばないよう指導されています。五十二歳の私が子供の頃は毎日のように、外で遊んだものでした。フナやザリガニ、熱帯魚のように美しいオイカワを採ったり、河原ではオニヤンマやトノサマバッタを追いかけ、向こう山でカブトムシやクワガタ、沢ガニを捕まえ、急な夕立ちに友達とびしょ濡れで家へ急いだ等の思い出は何にも代えがたいものです。そういう経験が自然と郷土愛に、やがては祖国愛へとなるように思いますし、生命の大切さも学べる筈ですが、その機会が与えられていない事がとても残念です。
(禅林 恭山)