慧光(えこう)

「慧光」は、東京都羽村市の臨済宗のお寺(一峰院、禅福寺、禅林寺、宗禅寺)で設立された「羽村臨済会」の季刊誌です。

第163号 令和4年 正月号

慧光163号

「夫婦別姓」という危うさ
禅福 泰文
鎌倉流御詠歌を味わう5
宗禅 和正
禅と共に歩んだ先人~山岡鉄舟~
一峰 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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「夫婦別姓」という危うさ

「正月は冥途の旅の一里塚」だそうですので、実際は目出たいよりも、死に近づいているわけです。これが自分のことだけなら大した問題ではないのですが、こと日本全体が冥途の旅にあるとすると、これはただ事ではありません。実は最近とみに祖国日本の存亡が心配になってきたのです。

世界情勢の分析は世に数多いる賢者たちに任せるとして、ここでは昨今目に付く身近な問題である「夫婦別姓」について、少々考えてみたいと思います。

世の中には結婚しても頑として自分の姓を変えたくないという人がいるようで、これを認めないのは古臭いとか、保守的であると糾弾されてしまうようです。姓を変えたくない理由は、元々の姓への愛着よりも、仕事上の都合のようです。

実は儒教社会であるお隣のシナや朝鮮半島の人は、結婚しても姓を変えません。ですから彼等は古来結婚しても夫婦別姓です。ちなみに同姓同志は結婚できません。これは何を意味するかと言うと、女姓は嫁いでも夫の一族には入れないということです。極論すれば、嫁は子どもを産むための道具であって、他の何ものでもないのです。夫が死んだ後、財産分与はあるのでしょうか。

「夫婦別姓」というのはこういうことです。決して新しい考え方なのではなく、封建的な一面もあるのてす。仕事に不便だという功利的な理由で以て、夫婦は同姓という極く普通の習慣を変えてしまっ
て良いのでしょうか。

それにお墓はどうするのですか。子どもはどうするのですか。夫婦・親子別姓では同じ墓には入れないでしょう。いや墓はいらない、散骨があるさと言うかも知れませんが、寺も墓もない不安定さ、心細さを一生背負って生きていかなければなりません。

この夫婦別姓の問題は近未来の日本に横たわる数々の問題の一つです。これらの心配ごとが杞憂に終わり、五十年後・百年後も日本が存在していることを、心から願っています。
(禅福 泰文)

~鎌倉流御詠歌を味わう5

【いろは和讃】

春の朝のさくら花
秋の夕(ゆうべ)のしらぎくと
四季おりおりの咲く花の
いろは匂えど散りぬるを
此の花もおなじ運命(さだめ)にて
暫し止まる事もなく
たとえば水の流ること
わがよ誰ぞ常ならん
照る日曇る日雨にかぜ
おぼろ月夜やさつき闇
うつり化しげき旅の空
有為の奥山今日こえて
蔦やかずらのいばら道
ふみわけくればさやけくも
高嶺の月ぞすみわたる
浅き夢みじえいもせず
作詞营原義道和尚

いろは歌といえば昔は国語教育の第一歩として使われているもので、日本人にはおなじみの歌です。
「色は{葉}匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ酔ひもせず」
漢字に示すと上のようになるそうです。

いろは歌は元々『金候明最勝王経音義』が文献上の初出だそうで、仏教の経典の”音義” 、つまり文字の発音のアクセントなどを理解するための注釈書に掲載されていたそうです。元々この歌は詠み人知らずでもあり、時代を経るうちに様々な意味合いの解釈がなされました。一部ではキリスト教(ヘプライ語)との関係性もまことしやかに語られるようになってもいるようですが、内容を素直に読み取ってみると仏教の無常観、つまり限りある命の儚さが分かりやすく詠まれていることが分かります。

ここ二年のコロナは混乱を我々に混乱をもたらしましたが、同時に命の儚さも感じさせてくれました。現代は誰しもがお医者さんのお世話になることができ、高度な医療の恩恵を受けることが容易くなっています。その分、昔とは違って寿命が延び人生八十年とも言われます。

しかし寿命こそ伸びたものの、残念ながら命というものは最初から永遠に続くものではありません。死というものは必ずあり、今日生きているからといって、明日が確実にやってくるわけではないのです。

そして、それはコロナが始まる以前からもずっとそうだったはずです。我々の命は儚いものです。しかし、儚いからこそ命は尊いものであり、家族や友人や大切な人と一緒にいれるということが、とても有り難いものになるのだと思います。

令和四年が始まりました。この一年が皆様にとって素晴らしい一年となることをお祈り申し上げます。
(宗禅 和正)

禅と共に歩んだ先人 山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)8

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き、幕末より明治にかけて活躍し、現代の日本のあり様にも大きな影響を与えているといえる「山岡鉄舟」についてお話させていただきたいと思います。

清河 暗殺
江戸に戻った清河八郎ならびに浪士組ですが、京へ出発後に応募に応じた160人余りを加えて400名にもならんとする大所帯となりました。それが八郎の計画する攘夷決行の手兵となるという、より危うい状況を作りました。

八郎の計画は、先ず外国人の多く居る横浜を襲撃、市中に火かけ、外国人を斬る、黒船を焼き払う、神奈川の本営を攻撃して軍資金を奪い、厚木街道から甲府城を奪い、甄皇攘夷の義軍を起こすという壮大なものでした。幕府にとって八郎は再び危険な人物として睨まれます。前回とは違い早急に暗殺する必要に迫られていたのです。

八郎は安全を考えて行動していましたが、日頃の言動が俊烈な事もあって個人的に恨みを持つ者も多く、結局それが仇となってしまいました。浪士組取扱役を勤める者数名に虚をつかれて落命する事となったのでした。この時八郎は34歳、鉄舟は28歳でした。

八郎との交友により疑いをかけられた鉄舟は再び謹慎処分となりました。八郎と盟友といえる間柄になった事は鉄舟にとってその後の人生を変える大きな転機となったといえるでしょう。八郎の高い見識に学ぶ面も多かったことでしょうし、志士達との交友で多くの友人を作り、また鉄舟の人柄に惚れ込んで弟子となった者達もいました。それらは永く鉄舟を支えていく事になりました。

ただその間、鉄舟の禅の修行は停滞気ったとの事です。スランプといっていいでしょう。この謹慎を機にもう一度己をみつめ直した鉄舟は、それ迄を取り返すかの様に、その禅的境涯を深めていきます。そこで培われた力は風雲急を告げる幕末に大いに発揮される事となるのでした。

弱体化した幕府に対し、薩摩藩、長州藩が中心となり、武力で倒そうとする動きが高まる中で、当時の将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返上するという「大政奉還」を奏上しました。それを受け朝廷より「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府は廃絶となりました。ただ徳川家は存続しており、その存在を危険視する薩摩摩藩、長州藩の挑発に乗せられる形で 「朝敵」となり、「鳥羽・伏見の戦」に端を発する「戊辰戦争」に巻き込まれていきます。
以下次号
(一峰 義紹)

禅寺雑記帳

◆昨年十一月に、NHKの番組『ブラタモリ』で、羽村が紹介されました。タイトルは「江戸の水ー江戸の水が東京を潤す?」で、玉川上水、まいまいず井戸などが紹介されました。しかし肝心のタモリさんが羽村に来ませんでしたし、情報も大雑把だったのがとても残念でした。以下に出来れば番組で紹介して欲しかった事をあげてみます。

◆狭山湖(山口貯水池)と多摩湖(村山貯水池)は埼玉県にありながら都民の水がめとして作られた人工湖で、その水は羽村から横田基地やIHI工場等の下を地下水道で送って水を貯めていること。

◆神田上水、玉川上水、千川用水、三田用水、青山用水、本所用水の六つを「江戸の六上水」というが、神田上水と本所用水以外の四つは全て玉川上水からの分水であり、神田上水も水が少なく、玉川上水の水を助水して足しているので、江戸で使われる水は結局のところ、ほとんど羽村の水であったこと。

◆王子の王子製紙や大蔵省の印刷局は千川用水の水を使っていた (昭和四十六年まで)
ので、羽村の水で日本の紙幣が作られていたこと。

◆恵比寿のエビスビール工場は三田用水の水を使っていた(昭和四十九年まで) ので、羽村の水で日本を代表するビールが作られていたこと。

◆明治三年、玉川上水に船が通って多摩の野菜、茶、織物、薪、木炭、山梨や長野のぶどうや煙草の葉が東京へ、東京からは米、塩、魚などが大量に安価で運ばれ流通が一気に広がったこと。

◆この通船事業を中心に行ったのは羽村の指田氏、福生の田村氏、立川の砂川氏で、いずれも玉川上水の管理を坦っていた名士だが、最盛期には百を越す舟があり、その半分以上がこの三人のものだったこと。

◆この通船事業は東京から多摩、山梨、長野まで広いエリアに莫大な経済効果を及ぼしたが、水が汚れて飲料に適さなくなるとしてたった二年で中止になること。

◆折角盛んになった流通をなんとか出来ないかと、先の三人が中心となって甲部鉄道(今の中央線)と青梅鉄道が作られたこと。

◆羽村が生んだ文豪、中里介山に英語を教えたのは福沢諭吉の弟子であった指田氏(先の息子)この人が「奥多摩」という名称を考えた人で、奥日光や奥飛騨など「奥~」の元祖はこれであること。

◆羽村には養蚕など、伝えたいことはまだまだ沢山ありますが、このくらいの情報を入れて井上陽水さんの「お未来のあなたに~」と終わっていたら羽村の凄さが日本中に知って貰えたのにと、少し残念です。私達それぞれが郷土、羽村を知り、愛してその素晴らしさを縦に横に伝えて生きましょう。
(禅林 恭山)