たぬき和尚通信

2016年6月30日 22:40

第2号 宗禅寺の半鐘突然の御帰山

六月十五日、その日は建長寺で人に会い、坐禅指導をする約束がしてあった。十一時頃、少し早いのだが特別に寺に用もないので、そろそろ出かけようかと思っていたその矢先。玄関のインターフォンが鳴り、私めがどうぞお入りくださいと声をかけたら、戸を開けて熊のような土建屋さん風のけっこう大きな丸坊主の男性が現れた。

あいさつもなく、そのまま本堂に上がらせてくれというので、ちょっと押し止め、本堂の玄関はあちらですと案内し、鍵を開けながら問いかけた。坊主頭だったので、和尚さんですか、と問うと、そうだと答え、「薬王山なのか医王山なのか」の質問をされる。「このお寺の山号は昔は薬王山でしたが、今は医王山です。お寺ができる前は、あの薬師堂しか村にはなかったのです。」というような会話をし、まだ何がなんだか私にはよく解らなかったので、応接室に入っていただき、曹洞宗の静岡の和尚さんであることが判明したので、坐ってもらい、淑子さんにお茶を出してもらった。

椅子に坐っていろいろな会話をしていると、どうも和尚は最初から宗禅寺を目指して来られたことが解った。和尚同士の話しで、年齢のこととか宗禅寺のこととか、先方のお寺が静岡県葵区の梅ケ島町の曹洞宗の宝月院であること、お名前は景浦俊道あること、山の中の小さな寺であるとか……。和尚はしきりに薬王山が宗禅寺であることを確かめようとしていたが、私にはまだ何が何だか解らないでいた。会話の中で、和尚の幼馴染が鎌倉瑞泉寺の大下和尚であることが解り、駒澤大学でも同級であったことが解り、又、和尚が学生時代、福生で工事関係のアルバイトをしていたことも解り、お互いにやっと同じ土俵に上がれた。

そんなことを通じながら、和尚が言うには、三カ月ほど前に、村の消防団が使っていた半鐘が不用になり、お寺の名前が入っているので消防団関係の人がお寺(宝月院)に届けてきた。和尚は息子さんに、半鐘に刻んである銘から色々と調べ、わが寺、宗禅寺に辿り着いたということである。ただ、宗禅寺について山号が医王山であり、薬王山ではないことが解り、とまどっていて、とにかく本堂に上がってそれを確かめたかったということであった。玄関でそこまでのやりとりをすれば、もっとスムーズに事が運んだと思うが、景浦和尚さんの一方的な行動力からはなかなかここまで辿り着くのが大変だった。今思うと、もし私が寺にいなかったら、景浦和尚は自分の意を確かめることもなく、そのまま帰ってしまっていたように思われてならない。たまたま禅センターに島田文庫長がいたので、私一人ではと思って、すぐ来てもらい同席してもらった。

そして、その半鐘のことについて、話しをされ出した。宗禅寺の名前や、世代である玉翁和尚の名前から推察すると、宗禅寺のものであることに間違いはないようである。私が和尚さんに「ではその半鐘はいただきにあがってもいいのですか?」と問うと、景浦和尚曰く、「お寺には半鐘が今あるから、もういらない。今さら返されても困る、と言われたらどうしようかと思っていた」と。そこで私は、では宝月院さんに引き取りにうかがってもいいですかと、再度お願いすると、なんと和尚は「今、車に積んであるから降ろします」と、言われ、私はビックリ仰天。和尚さんは最初から宗禅寺に半鐘を返すことが目的で梅ケ島から軽トラックを運転し、四時間近くかかって来られたのだと。こういうことは普通の場合、まず、電話か手紙で打診があって、双方で話しを充分つめて、本来ならこちらの方で引き取りに上がらせていただくものである。しかも、相当な御礼を用意してということになるのだが、宝月院の景浦和尚様はそうではなかった。まっすぐに自分の思っていることを実行に移されたということである。第一印象の熊のように行動的な、ということがまさにピッタリの方であった。

軽トラから和尚さん自ら相当重い(あとで計ったら二十四キロあった)半鐘をかかえて、本堂の中央に安置していただいた。そこで私はこの一大事に、総代さんがいてくれたらと大野哲夫総代長と中野祐司総代に電話をし、幸い在宅であったお二人にすぐお寺まで来てもらった。今日の事を簡単に説明し、五人で半鐘帰山法要をした。和尚は作務衣に絡子、私も同様。景浦和尚に導師として本堂中央に坐ってもらい、私が維那をし、大悲呪一巻を唱え、本尊様や歴代の和尚、檀信徒各位に報告し、皆で焼香をした。景浦和尚は「私はこれで帰ります」というのだが、「まあまあ」ということで、応接間に戻り、皆でこの川崎のお寺の事、昔の村のこと、などなどを話し合い、また、梅ケ島村には温泉があること、山を越えると身延山であることなど、色々な話し合いがもたれた。淑子さんに急いで昼食を作ってもらった。温かいうどんと天麩羅が用意され、五人でお酒なしで昼食を食べた。まだまだ話しを続けたかったのだが、鎌倉の時間が迫っていたので、今度総代さんたちと御礼に参上することを約束して、和尚さんを見送った。

景浦和尚曰く、「これから運転していく。つい最近秋田県までこの軽トラで行った。運転は福を転ずるから運転です。」と、洒落た言葉を残し、お帰りになられた。

以上が、宗禅寺に半鐘が戻ったことのあらましです。住職としてはこんなに嬉しいことはありません。島田文庫長がすぐ調べたところ、昭和二十年の三月二十七日に当時の軍部に供出した(供出した金額は二十一円六十四銭)という記録があるとのこと。供出したことは解っても、今どうなっているかを調べるのは不可能なこと。寺としては供出したことも忘れていた。ですから、突然のこの半鐘の帰還はびっくり仰天。ありがたしの一言。景浦和尚の英断に感謝、感激。

一七四六年に作られた半鐘が七十一年ぶりにお帰りになられた。そして奇しくも、今年は宗禅寺の創建四〇〇年正当の年。嬉しいことが重なった。開山玉岫和尚様もこの半鐘を造られた九世の玉翁和尚も、さぞかし喜び一杯の筈。寄付して下さった念仏講中の善男善女も喜んで下さっている。

現住和尚としてこのことは、檀信徒や地域の皆様にいろんな機会を作って報告をしなくてはと思います。七月十五日の施餓鬼法要にはこの半鐘を鳴らし、来山の方々に音を聞いていただき、玉翁和尚の銘の如く、「苦を抜いて、四海安清」なることを皆で願いたい。

  • ◆鐘銘
  • 當村檀家善男善女念仏講中
  • 募爲
  • 同助成衆中一千四百三十餘指
  • 延享三龍集丙寅如意珠曰
  • 武劦多磨郡小宮領川崎阜
  • 薬王山 宗禅禅寺
  • 幻住十八世玉翁碩珉叟代
  • 治工佐野天明町住
  • 長嶋文治郎吉久
  • 原夫武州多磨郡川崎村
  • 薬王山宗禅寺者
  • 玉岫球禅師挿艸之地
  • 世而雖殿安全備爲唯
  • 闕梵鐘也尚矣今茲丙
  • 寅之字抄秋化於諸檀而
  • 新筍虚鐘以爲法器所
  • 冀令若干柤越深省
  • 永結菩提勝果矣

銘 曰
唯 箇 華 鯨
鋳 鎔 既 成
徹 雲 吼 月
占 雨 報 晴
魍 魎 魂 滅
群 生 夢 驚
無 量 功 徳
其 不 可 名
秡 苦 悲 願
總 在 此 聲
諸 天 擁 護
四 海 安 清

帰還した半鐘

鐘の高さは五十八センチ。直径は三十一センチ

半鐘帰還集合写真

中野総代 大野総代長 宝月院景浦俊道師 当山住職 島田文庫長