たぬき和尚通信

2017年8月23日 15:40

第10号 イスラエル各論

狸和尚のイスラエル巡礼・各論

                        高井正俊 記

1、ミサのこと

 

〇今回のピルグリメイジにおいて、ミサは毎日行われた。7月6日(聖ペトロ教会)、7日(ペトロ首位権教会)、8日(山上の垂訓教会)、9日(聖ヨゼフ教会)、10日(マサダ遺跡、エリコ遺跡)、11日(主の涙の教会)、12日(洗礼者ヨハネの教会)、時間にしてそれぞれ40分程。

〇ミサはカトリック教会において、最も大事な典礼。イエス・キリストの死と復活の恵みに与る、喜びに満ちた感謝の祭典。イエスは最後の晩餐でパンをとり、「皆これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡される私の体である」、ブドウ酒を「これは私の血」といわれました。この聖体の秘跡が行われるのがミサとなります。

 今回のミサは山口神父が司祭として式を進行しました。司祭が礼服に着替えて入場するまで、私たち会衆はあらかじめ手渡された讃美歌集から指定された讃美歌を歌います。式も又、手渡された「祈りの手帖」に従って進んでいきます。司祭によって開祭され、ことばの典礼、パンとぶどう酒の奉献があり、感謝の典礼、交わりの儀と進み、閉祭となります。イエス・キリストの復活を記念して、私どもが共に平和を実現していくことの実行と確認がその中味と思われます。もちろん、イエス・キリストに対する絶対の信頼と帰依、すがりがなければ儀式は成立しません。ですから、キリスト者として生きるための、神への確認、力をもらう儀式といってもよいのだと思います。「主の平和を」といって、互いに皆で両手で握手を交わすこともその象徴です。そして共同宣言といって、各自がイエス・キリストの前で、自分が行うべきことを表明し、「主よ、私たちの祈りを聞きいれて下さい」と唱えることも、その表れであると思います。主と司祭と会衆が一体になる形が出来ています。

〇イエス・キリストを主人公にして司祭と会衆が、この儀式を作り上げていくことは、神の国を作る共同作業といってもよいのでしょう。このミサを通じて、神のもとに信仰を共にして生きることの一体感が形成されていきます。キリスト教でこのミサがとても重要な儀式とされる意味がここにあります。

 一方仏教はどうかというと、僧侶が法要でリードしていき、大衆はそれに従っていくという形です。浄土真宗や日蓮宗には強烈に大衆をリードしていく力がありますが、他の宗派はそうでもないようです。ただ、檀信徒が宗旨を深く理解し、信奉してそれを行っているかは不明です。

〇ミサでのパンとぶどう酒をいただく、食の行為は、仏教・神道とも共通のものがあります。特に神道の「なおらい」という、神様に差し上げたものを神様から下げ渡され共に食す行為は、キリスト教と似ています。仏教でも法要のあとの食事は、祖師や亡き人と共にこれをいただく、ということで、共に食べることは重要な儀式の一部です。食の行為はキリスト教も神道も仏教も共通したものがあります。

2、ピルグリメイジ(巡礼の旅)のこと

 

〇イスラエル入国の時、何の目的で来たのかと入国審査官に問われたら、「ピルグリメイジ」と答えなさいと、山口神父からご指示がありました。なんとも言いにくい言葉ですが、意味は巡礼の旅ということです。聖地詣でともいえます。日本風に言えば、仏跡巡拝の旅になるのでしょう。

 この聖地巡拝の旅は、キリスト教、神道、仏教それぞれにあります。今回のイスラエルでは、イエス・キリストの聖跡をたずねること。十字架を背負ったイエスが歩いた道をたどるヴィア・ドロローサもそれでしょう。仏教の場合はたくさんの例があります。四国のお遍路さんがその典型です。チベットでもカイラスの山を五体投地しながらの巡礼もあります。イスラムのメッカ巡礼もそうですし、神道のお伊勢参り、修験道などもこの中に入れてよいように思います。

 巡拝すること、行ずることによって、イエス・キリストと一体になる。あるいは自分の霊性を高めていく。精神的な充実を高める。又、非日常的な体験を通じて、新しい自分を発見するということにもつながっていくのではないかと思います。

 今回の巡礼の旅は、キリスト教のもっている宗教体験の組織化された形、一体感を形作る方法など、私が経験できない世界を体験できた点がとてもよかったと思います。

3、般若心経を唱えさせていただいた事

 

〇山口神父とは鎌倉で共に宗教者であることから交流が始まりました。具体的には3.11の追悼復興祈願祭で、神道・仏教・キリスト教の宗教者が、同じ場に立って祈りを捧げるという形でそれが具現化しました。又、鎌倉塾での山口神父のお話しを聞いて、その宗教的信念に裏打ちされた、現場での平和実現の実現力に感服も致しました。

 今回のピルグリメイジでは、3日目のガリラヤ湖畔の山上の垂訓教会にて柴田孝子さんからの御指示を受け、山口神父のすすめもあり、般若心経を唱えさせていただきました。これはすでに、鎌倉の教会や神社の拝殿でお経を唱えていたこともあって、それほどの抵抗感もなく、唱えることができました。只、お経はそれを聞いて意味がわかるというものではありませんので、毎日その時その場の雰囲気、皆さんの気持を察し、読ませていただきました。山上の垂訓教会では、ガリラヤ湖にお経が風に乗って届いていくようにと。聖ヨゼフ教会では受胎の喜びを。クムラン・エリコではお経がキリストの声になって死者を悼むように。エルサレムの主の涙の教会ではエルサレムにいることの喜びを皆と共有するように。洗礼者ヨハネの教会ではこの旅に参加できた喜びを般若心経に託して唱えさせていただきました。

 ありがたいことに、高橋さん、マーガレットさん、西郷さんはお経に共に和して下さいました。そして、自分の父のことを思い起こして、いい供養ができましたとおっしゃってくれた大越さん。皆さんにとても喜んでいただけたことは、仏教者として感謝の気持ちで一杯です。異国の地の教会で、お経を唱えること。イエス・キリストは、どう思われておられるでしょうか。まさに、アーメンの境地です。

 

4、ユダヤとパレスチナ、あるいはユダヤ教とイスラム教のこと

 イスラエルに行きますと妻に告げた。あぶないんじゃない。行かないほうがいいよ、と。なんとなく周囲の雰囲気はそうだった。山口神父は世界を飛び回っておられる方。「大丈夫ですよ」。私の弟子である高津ドロテーさんも今年に入って2週間ほどエルサレムにいた。聞いた処、「心配ないですよ」。まあ、大丈夫だろうと行くことを決めた。外務省出身の高橋章子さんをお誘いしたら、お母さんの勧めもあって、一緒に行きますとのこと。仏教徒として異宗教の真っただ中に行くことは、すばらしく魅力的なこと。行かなければ何も解らないし、感じることが出来ない。

 私たちがイスラエルから帰った次の日、神殿の丘でイスラエル兵とパレスチナ人の過激派との銃撃戦があり、双方に4人の死者がでたとのこと。残っていた高橋さんは、現場近くにいて、1日市街地が封鎖され、タクシーが拾えず大変だったとのこと。正味一週間、私たちがイスラエルにいた感じは、それ程危険ではないとの印象。只、パレスチナの町とイスラエルの町は感覚的に違う印象はある。アラブのパレスチナ人は解放的、人間的、おおらか。イスラエルそのものは清潔、きちんとしている、マナーも良い。パレスチナ人のいるベツレヘムは混沌、エルサレムはスマート。そうした街は民族の違いと、やはり宗教の違いもあるのだろう。パレスチナでは朝の4時半頃、街全体にコーランの詠唱の声(朝の祈りをうながす)が、スピーカーから音吐朗々と響き渡ってくる。邪魔するものは、蹴散らすぞの勢いで。そして岩のドームの入口にはイスラエル兵がテロの危険から人々を守るために、厳重な警備がなされている。城内の各所にもイスラエル兵が厳重な警備をしている。何もないと思いたいが、何かがあるからそうしているわけだ。ユダヤ民族の1900年にわたる受難の歴史がその背後にあるのだから、そう簡単な解決策はないのだろう。それがエルサレムの嘆きの壁に象徴されている。このままで、いいのだろうか。

 イスラム教もユダヤ教、キリスト教の影響の中から出来た宗教。エルサレムの神殿の丘はまさに、イスラム教のモスクとユダヤ教の嘆きの壁とキリスト教が住み分けしながら一体となっている処。それぞれの違いの中で、緊張を保ちながら成り立っている。それぞれの原理を戦わせると、対立は激化して、互いに許し難いものとなって、最後は暴力に訴えることになる。自分達の原理で相手を見てはいけないのだろう。対立は激化させない方がよい。そのために何をしたらよいのだろうか。互いの宗教指導者が相手の原理を理解したり、歩み寄って握手をしたり、語り合ったりしているのだろうか。

 平和な日本だから、鎌倉だから出来るということなのかもしれないが、鎌倉では宗教間対話や宗教同志で祈りの場を実現させている。宗教が平和を祈るものであるとしたら、そこで世界の平和や地球の維持のために共同歩調をとらなくてはいけない。互いに加害者や被害者になるのではなく、共存していくしかない。まして、こんなに現場が重なっているわけだから。そうしようと思えば、できるのではないだろうか。

 イエスキリストとムハンマドと釈迦の三者会談は出来ないものだろうか。

 

5、最後に、イスラエルに行けてよかった

〇この真夏の暑い時に、わざわざ暑い所にいく。イスラエルは観光的には今、オフシーズン。でもこの暑い中、メンバー9人の全員が故障もなく、このピルグリメイジを乗り切りました。山口神父の指導力と、チーム全体のまとまり。それぞれみんな違うのだが、9人という人数がよかったからですね。9人チームは食事はいつも全員ひとつのテーブル。食べること、飲むこと、語ることを通じて、チームワークが出来ていきますね。

 そして、シーズンオフなので、どこにいっても混雑がなかった。4回目の山口神父も、びっくりするような、ゆったりしたゆとりのあるお参りができた。これはとてもありがたかった。宗教的な雰囲気も充分味わうこともできた。死海の浮遊体験、あっという間のことだったが、体験しないと解らない。マサダの城もクムランの死海写本の場も、百聞は一見にしかず。ローマの遺跡がこんなに沢山あることもびっくり、そして嬉しい。民族の違いについても、関心をもてるようになった。アジアにいると、なんとなくアジアの一体感があるが、ここはやはり違う。何かがある。個人的には、一回も転ぶことなく、皆さんにそんなに迷惑をかけずに済んでよかった。このイスラエルでの異宗教体験が宗教を考え、思う上で、どこかで生きてくればいいなと思っています。皆さんありがとうございました。