慧光(えこう)

「慧光」は、東京都羽村市の臨済宗のお寺(一峰院、禅福寺、禅林寺、宗禅寺)で設立された「羽村臨済会」の季刊誌です。

第141号 平成28年 盂蘭盆号

慧光141号

わが釈迦牟尼の声と姿と
宗禅寺副住職高井和正
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺副住職高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 小住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 啓純

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わが釈迦牟尼の声と姿と

お盆を迎え、羽村臨済会のお寺では施餓鬼法要が営まれます。お盆の施餓鬼法
要は本堂の使い方が普段とは異なります。ご本尊様の前に施餓鬼棚を設置するのではなく、本堂の外側に向けて施餓鬼棚を設置しています。不思議なことに羽村市
内の四ケ寺の本堂の正面は全て同じ方角を向いているようですが、施餓鬼棚の向
こう側には、広々と地球の大地、大自然が広がっています。
峰の色 谷の響きもみなながら
わが釈迦牟尼(しゃかむに)の声と姿と
(道元禅師〉

曹洞宗の開祖、道元禅師は全ての命あるものの仏としての姿を和歌に残されま
した。我々命あるものは全て仏であり、その命あるものは全て仏であり、その命を生み出し、育んでくれる山野の青々とした森林、絶え間なく流れる谷川の響きもすべてお釈迦様の説法であると申しておられます。

我が町、羽村を走っている電車青梅線はホリデー快速なる便があり、週末ともなる
と都内からハイキングに来る大勢の乗客を乗せて走っています。羽村のチューリップ
や桜のお祭り、多摩川の美しい景色など、人間は大自然と相対した時に、心の中で癒しを感じる生き物のようです。その癒しを感じる心こそ、塵や垢のついていない、清浄なる仏の心だと言えるでしょう。人間は高度な文明社会を営んでいますが、その文明社会の外側には大自然の社会があります。我々人間も大自然の一部なのであり、それは同時に皆様が平等に大自然の恵みを享受し、仏様の中で育まれている存在であることを示しています。

施餓鬼法要は時に殺伐とした文明社会の中での人間の心を、本来の大自然の一部としての姿に立ち返らせてくれる法要でもあります。我々人間を育んでくれる大自然の中の全ての命に対して施餓鬼棚を持っていることを実感するための法要なので
す。

自然の一部となり、本来の自分に立ち帰る。そんな夏になることを願っております。〈宗禅寺副住職高井和正〉

白隠禅師坐禅和讃を読んでみるその4

衆生木来仏なり
衆生近きを知らずして遠く求むるはかなさよ
例えば水の中に居て渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて貧里に迷うに異ならず
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)
※衆生―命あるすべての生き物のこと

自分探しの旅
ここ15年ぐらいでしょうか。自分探しという言葉が世に定着しているようで
す。昔と違い、必ずしも家業を継がなくても良い時代となった象徴ともいえる言
葉だと思います。自分がしたいことは何なのか?本当に今、勤めている会社で
いいのか?結婚相手はこの人でいいのか? 人生において重要な決断を迫られ
る時は誰にでも訪れます。確かに自分にとっての最良の地、自分の居場所はどこ
なのかということで考えれば、文字通り人生というのは自分探しの旅であると言
えます。しかしながら、自分探しで大事なのは自分の外側だけと言い切ってしま
って良いのでしょうか。

人生を歩む中で、我々は自分自身の力だけではどうにもならない出来事に出く
わします。会社の人事や自分の恋人や連れ合いの両親のこと、自然災害や自分の
体の病気なども含まれてくるでしょう。残念ながら自分の外側、周囲の環境に起
きることに対して、どうすることもできない自分がいるはずです。

白隠禅師はそんな我々の事を、「水の中にいながら渇きを訴え」、「裕福な家庭に
生まれながら、物乞いをしている」と坐禅和讃の中で例えておられます。

環境に左右されない自分を
白隠禅師は自分自身と向き合うことの大切さを説いておられます。人任せの人
生も、物任せの人生もないのです。自分の人生の主役は自分なのですよ、と。自
分自身の人生に起きたことを他人や周囲の環境のせいにしてしまうのはいかにも
容易いですが、自分の人生に起きた出来事を正誌に真撃に受け止めていく心を誰
もがしっかりと持っていることを忘れてはいけません。自分と向き合うことによ
って、自分の中にあるブレない自分、環境に左右されることのない絶対的な自分
の心を見つけることができれば、どこにいても、どのような状況になっても、自
分の持っている力を出し切れる素晴らしい自分でい続けることができるような気
が致します。

「おのれこそ おのれのよるべ おのれをおきて 誰によるべぞ よく整えしおのれこそ
まこと得難き よるべを獲ん」
(宗禅寺 副住職 高井和正〉

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第一話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、
偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣皆で進めていこうというこの項で
すが、今回より江戸時代前期に生き、日本の俳諧(はいかい)(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」を取り上げたいと思います。

その生涯

芭蕉は今の三重県伊賀市に寛永21年(1644年)に生れました。名字帯刀を許されるそれなりの名家である農家の次男として育ちましたが、父を早くに亡くし、経済的に困窮したため、伊賀上野の侍大将藤堂家に出仕しました。そのあとつぎの藤堂良忠に仕える事となった芭蕉(当時は宗房と名のっていた)は、良忠と共に京都の俳人「北村季吟」に師事(弟子となること)し、俳諧に足を踏み入れます。16才の時でした。そこで次第に頭角を顕していきます。季吟の下で俳句の腕を蕗き続けていた芭蕉でしたが、主君である良忠が死去し、また季吟からもその才を認められ、俳諧作法書「俳諧埋木(まいぼく)」の伝授(免許皆伝の意味を持つ)が行われた為、これを機に江戸へ向かうこととしました。
30才の時でした。

江戸においては「松尾桃青(とうせい)」と名を改め、様々な文人、俳人と交流を深め、多くの影響を受けます。その中でも大きな
事は臨済宗の高僧、仏頂(ぶっちょう)禅師との出会いでした。

その頃、深川に住居していた芭蕉は、同じく深川の臨川庵(りんせんあん)に逗留していた仏頂禅師と出会い、その禅的世界に魅了され、
禅師の下に参禅(禅の修業)して、その禅的境涯(きょうがい)を高めたのでした。

深川の芭蕉の庵(いおり)に、弟子の李下から芭蕉の株が贈られ、これが大いに茂ったことから、そのすまいを「芭蕉庵」と名付け、
自らも俳号を「松尾芭蕉」と改めました。その愛着ある庵を火事で失ってしまうのですが、この事は芭蕉に「無常観」
といったものを深く植え付け、これ以後、頻繁に旅に出る様になります。

芭蕉の残した紀行文(旅行しながら、その土地の事を記したもの)で有名なのは、東北、北陸地方を旅した時の「おくのほそ道」ですが、
それ以外にも郷里である伊費方面への旅で記した「のざらし紀行」であったり、その地多くの紀行文が残されています。
(一峰 小住 義紹)

禅寺雑記帳

■政治資金の様々な問題によって都知事を辞任した舛添要一氏の一連の問題には、本当に腹が立ちました。「不適切だが法には触れない」事を承知で、全て確信犯で税金を私していた様子がありあり、本当に狡猾で、こんな日本人がいるのかと悲
しくなってしまいます。湯河原の別荘に毎週のように泊まり、その往復は公用車。
災害など非常時の対応が迅速に出来る筈がありません。美術品をはじめ、私的使
用目的としか思えない数々の支払いも、家族的旅行や食事さえも税金を流用。海
外出張時は飛行機はファーストクラス、宿泊は一流ホテルのスイートルームとい
う贅沢。「東京都のトップが安いホテルに泊まったら恥ずかしい」や「湯河原は
奥多摩よりも近い」発言など、東大出ててもこの程度か、とガッカりさせられる
事ばかり、母親の介護をし世間的にはイメージが良かったようですが、これも嘘だったという報道もあります。もっと早く辞めていれば50億円もかかるという都知事選挙も’参院選挙と合わせて行えた筈です。こんな人をトップに担いだ事は残念だし恥ずかしく、情けなくなります。

■戦国時代を統一し、泰平の世をもたらした徳川家康は倹約家でした。そこには
天下というものは民のものであり、民のものは無駄にしては申し訳ないという確固
たる信念があったのです。

■徳川家康は幼少時代、今川家の人質として静岡の臨済寺に預けられました。も
ちろん臨済宗のお寺で、今も修行道場となっています。ここで住職であり今川家
の家臣でもある太源雪斎(たいげんせっさい)から、人としてかくあるべきという教えを学んだといわれています。その教えも元となり、以後260年も平和な世の中が続くことになるのです。今年は臨済禅師の1150年遠諱の年です。臨済宗がこのように日本に影響を与えていることを知っていて欲しいと思います。

■日本人は仏教の教えを通じて、公の意識を強く持つ国民です。儲よりも全体の
為に、という意識が高いのです。徳川家康がつくった江戸を引き継いだ東京の知
事が自分の事ばかり考えるような人間だったのは、本当に残念です。

■臨済禅師1150年の報恩大坐禅会が鎌倉で行われます。建長寺、円覚寺にて
10月29日~30日の土日の予定です。
詳細はお彼岸号に記載しますが、折角の機会なので予定を空けてお待ち下さい。

■毎年恒例の「羽村灯篭流し」が8月6日(土)18時30分から行われます。
場所は宮ノ下グランドです。当日来られない方も、頼んでおけば当日に故人の戒
名などを書いた灯篭を流して頂けます。一基千円です。詳細は各菩提寺にお尋ね
下さい。なお雨天の場合翌7日になります。
(禅林 恭山)