慧光(えこう)

「慧光」は、東京都羽村市の臨済宗のお寺(一峰院、禅福寺、禅林寺、宗禅寺)で設立された「羽村臨済会」の季刊誌です。

第142号 平成28年 秋分号

慧光142号

公とは「世のため人のため」
禅福 泰文
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺副住 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 小住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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公とは「世のため人のため

日本中がオリンピックの熱狂に覆われる少し前、天皇陛下が生前退位のご意向を国民に示されました。その又少し前、公的資金の私的流用を疑われた都知事が退職し、新しい都知事が選ばれました。この二つの出来事は、われわれに「公」と「私」という問題を考えさせる、良いきっかけとなりました。
まず、天皇陛下が「お言葉」を述べられたおかげで、陛下は何と厖大な量のお仕事をされているのか、ということをわれわれ国民は知らされました。そして、その仕事の中味は「民の安寧と国の平安を祈る」ことに尽きる、と知らされました。つまり、天皇陛下は日夜「世のため人のため」に、その幸せを祈って下さっている、ということです。自分の幸せを折るのではなく、他人の幸せを祈るということを公の仕事としている人は、天皇陛下以外には誰もいないでしょう。天皇という立場に「私」は存在しないのです。何と貴く重い立場であることか。
翻って、前都知事の公私混同については、多くの批判が繰り広げられました。これは個人の資質ということもありますが、究極的には公を忘れ私を利するという、凡俗の精神の為せる業であると言えます。しかし、他人を批判する前に、自分が同じ立場に立ったとしたら、果たして同じことはしない、誘惑や欲望には負けないと言い切れるのか、本当は考えてみる必要があるのです。凡人であるわれわれは、実は誰でも同じ誤ちを犯す可能性がある、と考えた方が良いのです。
「人の振り見てわが振り直せ」と昔の人は一言いました。天皇陛下に倣う、などというのはおこがましいことですが、今こそわれわれ日本人は、戦後失われた公の精神、「世のため人のために尽くす」という生き方を取り戻さなければならないのではないでしょうか。
それは「自分のみ可愛い」という偏狭な心凡夫の心から、広大な慈悲の心仏の心への転換でもあります。若い人にそのきざしがあります。希望があります。
(禅福 泰文)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その5

六趣輪廻(ろくしゅりんね)の因縁は己が愚痴の闇路(やみじ)なり
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

◆意訳
私達の心は常に地獄・餓鬼・畜生・修羅・天上・人間という六つの迷いの世界を行ったり来たりしている。いつも迷いの世界にいるのは、境遇や環境のせいではなく、自らの心の愚かさにあるのだ。

六趣輪廻とは
仏教の下地になっている基本的な考えに輪廻があります。元々は仏教誕生以前からインドに存在していたバラモン教(ヒンドゥー教の原型)の考え方で、仏教の生まれたインドの基本的思想ともいえるものです。輪廻転生ともいい、「流れること、転位すること」を意味しており、命あるものの生死の繰り返しが未来永劫続いていくという意味の言葉です。
六趣とは、その繰り返しが六つの世界にまたがって続いていくということです。

◆地獄界
絶え間ない苦しみが続く世界

◆餓鬼(がき)界
いくらあっても、「まだ足りない」と思う、ガツガツとした貧りの世界

◆畜生界
自分のことをコントロールできずに、欲望に負けてしまう世界

◆修羅界
周囲と強調しない、激しい争いの世界。
修羅場という言葉の元

◆人間界
恨みや妬みのある世界

◆天上界
極楽の世界であるが、その極楽は長続きしない世界

今生きている我々からすれば、六道は死後の世界ということになるのかもしれません。昔から悪いことをした人は地獄に堕ちると考えられていました。他ならぬ白隠禅師自身も幼少の時、近所のお寺で見た地獄絵図に恐れ戦き、地獄へ行きたくがないために仏道を志すのです。しかしながら、地獄や六道は本当に死後の世界にあるものなのでしょうか?
かつて、とある武士が白隠禅師に地獄と極楽の存在問うた時、自穏禅師は相手の武士をわざと罵倒し挑発しました。堪忍袋の緒が切れた武士は、禅師に対し刀を抜いて切りかかりました。そこで禅師は「そこが地獄である」とおっしゃりました。禅師がおっしゃりたかったのは、人を刀で切りつけるという恐ろしい心を誰もがもっているということです。六道は外にあるものではなく、自分の心にあるものなのです。我々はすでに六道にどっぷり浸かっているのです。
「六道の辻に迷うぞ憐れなり身は極楽の真中に居て」
(宗禅寺 福住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第二話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣皆で進めていこうというこの項ですが、今回より江戸時代前期に生き、日本の俳諧(はいかい)(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」を取り上げたいと思います。

紀行文
前回にお話しした様に芭蕉は多くの紀行文(旅行しながら、その土地の事を記したもの) を残しています。代表的なものは皆様もご存じの「おくのほそ道」ですが、その他にも「野ざらし紀行」「更科紀行」などがあります。仏頂禅師からの薫陶や愛着ある自らの庵の消失などで「無常観」を深く植えつけられたためだといわれていますが、その芭蕉の持つ「無常観」は有名な「おくのほそ道」の序文「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」にもあらわれています。
ほとんどが徒歩であった当時の旅行ですから、これだけの紀行文を残すという事は大変なことで、その後半生の多くを旅行していたといえます。51才で亡くなったのも旅先の大坂(現在の大阪)でのことでした。

俳諧――芭蕉以前・以後
さて先ほど芭蕉は俳諧を芸術的域にまで高め大成させた――と記しましたが、そもそも俳諧とはどの様にして生れ、発展してきたのでしょう。
「俳諧」には、「滑稽」「戯れ」「機知」「諧謔」等の意味があります。室町時代に盛んであった和歌のうち、表現を滑稽・洒脱にして、より気軽に楽しめるようにした文芸が「俳諧の連歌」と呼ばれて一般に広く浸透していきました。
当初は連歌の傍流という立場でしたが、次第に愛好者を増やし、一定の地位を築くに至ります。連歌は先ず誰かが発句(五・七・五の部分)を作り、他の者がそれに句を付けていくという作法となりますが、発句のみで完結させるという表現が出て来て、これが現代に通じる「俳句」の元となりました。

江戸時代となり、世に太平が訪れると俳諧は一層盛んになりますが、それまで遊戯的であった俳諧に「わび・さび」といったものを取り入れようとする流行がおきました。短歌には古くから「わび・さび」の概念はあったのですが、俳諧独自の「わび・さび」の表現を追求するようになっていきました。
芭蕉はそこに一つの答えを導き出し、俳諧を大成させたといわれています。もともと遊びであった「俳諧」を芸術的域にまで高めた芭蕉は何をしたのでしょうか?
以下次号
(一峰 小柱 義紹)

禅寺雑記帳

◆南米大陸初のリオデジャネイロのオリンピック、色々問題が多く開催自体が心配されましたが、無事に終わりました。
日本は過去最多の41個ものメダルを獲得、逆転での勝利も多く、本当に興奮し勇気や感動を与えられました。次はいよいよ東京オリンピック、楽しみです!

◆臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念の「鎌倉大坐禅会」が10月29日(土)30日(日)に建長寺と円覚寺にて行われます。老師さまの提唱(講義)と坐禅でニ時開程、事前に申し込みが必要です。食事のついた回もあります。各寺に申し込み用紙がありますが、ネットから直接申し込む事も可能です。応募締め切りが9月30日迄ですが、定員に達した回から締め切りとなりますのでお早めに、次の機会は50年後ですよ。

◆もう一つ遠諱の関連企画・『禅―心をかたちに』展が10月18日から11月27日まで、上野の東京国立博物館にて開催されます。日本の文化、精神性、私たちの普段の生活にも多大な影響を与えて来た臨済宗の貴重な資料が、大徳寺や南禅寺など全十五派の全面的な協力で一同に会します。事前申し込みが必要ですが記念講演や尺八イベント、建長寺派に
よる「四ツ頭茶札」などの特別な催しのある日もあるので、興味のある方は菩提寺に尋ねるか、ネットで検索してご参加下さい。これも貴重な機会です。是非!
(禅林 恭山)