慧光(えこう)

「慧光」は、東京都羽村市の臨済宗のお寺(一峰院、禅福寺、禅林寺、宗禅寺)で設立された「羽村臨済会」の季刊誌です。

第159号 令和3年 正月号

慧光159号

謙虚さを支えるもの
一峰 義紹
鎌倉流御詠歌を味わう3
宗禅寺 高井和正
禅語に学ぶ「照顧脚下~己を見よ~」
禅福寺 尚玄
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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「謙虚」さを支えるもの

新型コロナウイルスの蔓延により、マスタの手放せない日々が続いています。
少し古いジョークですが、各国政府が国民にマスクの着用を呼びかける際に使われた文言といえば?
アメリカ「マスクをする人は英雄です」
ドイツ「マスクをするのがルールです」
イタリア「マスクをすると異性にもてますよ」
日本「みんなマスクしていますよ」

あくまでジョークですが各国の人柄があ らわれていて面白いですね。
この日本人特有の「右へならえ」といぅ価値観は他国の人から「自己が無い」 などと揶揄される事もあるものですが、こういった感染症対策の時、また東日本大震災の時などの非常時における規律正しい行動は他国から称賛されるものでもあるのです。

唯一絶対神を持たない仏教と多様な神々を祀る神道。その両方の影響のもと、日本の文化は紡がれてきました。そこにおいては人間とはこの大自然を構成する一つの部品という風に我々自身をとらえています。ですので自ずから自然に対し畏敬の念を持ちます。その畏敬の念が我々の謙虚さや公共心の元になっています。
対して唯一絶対神を持つ宗教(ユダヤ教、キリスト教.イスラム教)において、人間は神が「手づくり」した特別な存在として認識されています。神と一人一人 の人間が契約しているわけで、その契約こそ最も大切にされるべきもので、集団や国といった概念に優先されるのです。

こういった宗教的背景を持たずにその欧米的価値観のみを取り入れて傍若無人に振る難い、それを格好いいと思っている人が見受けられますが、非常に残念に思われます。また「自粛警察」と呼ばれる者らの行いにも謙虚さが全くありません。

自分自身のまわりに丁寧に目を配り、他者の迷惑にならない様に留意し、自分の行動を律していく—–この公共心あふれる謙虚な姿勢こそ我々日本人が大切にしていくべきものだと思います。
(一峰義詔)

鎌倉流御詠歌を味わう3

【天地のめぐみ】第三番

山河を照らす陽の光
雲間をもるる月の影
万のものに隔てなの
天地の慈悲かぎりなし
作曲菅原久子 作詞 菅原義道

宗禅寺では毎年除夜の鐘を開催している。除夜の鐘は煩悩の数だけ108回撞くのが正式なようだ。一年の終わりに鐘を撞いて、この一年は煩悩とおさらばしようということだ。今の最大の煩悩はコロナであろう。皆が煩い、悩んでいる。実際には鐘をついただけでコロナとおさらばできるわけではないのではあるが、コロナで中止にしていなければ、日本中のお寺でコロナ煩悩退散の鐘が撞かれるわけで、人々の祈りの力が日本中に鳴り響くのである。

四弘誓願文(しぐせいがんもん)という お経に「煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだんごの一文がある。「尽きることは無い煩悩を断ち切ることを誓い願います。」という文になる。ここが大切なのだが、煩悩を消し去るのではなく断ち切るという。煩悩が湧き起こつてくることは避けられないのだが、その煩悩にとらわれすぎない部分が大事であるとうことであろうか。コロナが消え去ることはないのだが、コロナにとらわれすぎてはいけないということでもある。

昨年、思いがけず神宮外苑の有名な銀杏並木を訪れる機会があった。訪れたといっても、仕事に向かう途中に車でたまたま通りがかっただけのことなのだが、 信号待ちの渋滞もこちらには都合がよく、ほんのひととき車の中からではあったが秋の明媚を楽しませていただいた。

穏やかな自然に包まれてみると、日頃の煩わしさをひと時忘れて、自分が自分に戻れるような感覚を得られる。それはコロナ禍で右往左往している現在の我々にとっても同じことで、こちらが悩んでいようが喜んでいようが悲しんでいようが、空に佇む太陽や月は、いつもどんな人にも分け隔てなく、有り難い光をもたらしてくれている。神宮外苑の銀杏の木もまた同じであった。

コロナ感染者が増加傾向にあった時期であったものの、銀杏並木では赤ん坊を連れた家族連れから友人同士やカップルに至るまで、老若男女問わず大勢の人たちが歩いており、写真を撮ったりしながら、晩秋の週末を思い思いに笑顔で楽しんでいた。そんな姿に触れた私を、思いがけなく平和な気持ちにさせてくれたことを思い出す。

正月は天気が良ければ初日の出を拝みたい。毎日毎日太陽が昇ってくることほど、素晴らしいことはないと思う。天地のめぐみがある限り、我々は大丈夫なのだと信じたい。

(宗禅寺 高井和正)

〜禅語に学ぶ〜 己を見よ

昨年より続くコロナ禍のなか、新しい年が明けました。本年が皆様にとって心おだや力な年でありますようお祈り申し上げます。

このご時世ということもあり、初詣に行くことを控えている方もいらっしやると存じますが、誰もが真っ先に願うのは、「コロナゥィルスが早く収束しますように」ではないでしようか。私も、一刻も早くこの事態が収束することを切に願っております。

昨年は新型コロナゥィルスに翻弄され続けた年でありました。目に見えぬ敵ということもあり、’いつどこで感染する かわからない恐怖や、連日報道される感染者数や死亡者数を見ることにより、先に精神がまいってしまつた方も少なから ずいたのではないでしようか。また、誤った情報により、トイレットべーパー類を朝からお店に並んで買いに行った方もいらっしやると思います。今振り返ってみると、冷静さを欠いていたと思ってしまいますよね。人は思いもしない緊急 事態に遭遇すると、冷静な判断が出来なくなってしまうものです。

照顧脚下
または、「脚下照顧」や「看脚下(かんきゃっか)という禅語をお寺の玄関先で見かけた方もいらっしゃるかと存じます。 どれも「足もとをよく見なさい」という言葉ですが、実生活に展開し「履き物をそろえて脱ぎなさい」ということにもな っております。また、「足もとをよく見よ」というのは、「自分自身(自己)をよく見よ」という意味も込められております。履き物が乱れていることに気がつかないほど、 あなたの心は乱れていますよ、とさとらせているのです。

ときに私たちは、自分自身の足で歩いているようで何かに流されて歩いていたり、誰かの後ろをついて歩いていたりし ていることがあります。特に現代の情報化社会では、様々な情報によって流され、地に足がついていない状態になってしまうこともあるでしよう。

「照顧脚下」という言葉は、時には立ち止まり、何のために、どこに向かって歩いているのか、そのことをしっかりと自分自身で見つめなさい、と私たちに問いかけているのです。

人生を歩んでいく上で不安や迷いは尽きません。そのようなときは立ち止まってもいいのです。自分の足もとをしっかり固め、確かな足取りで新しい一年をともに歩んで行きましよう。
(禅福 尚玄)

禅寺雑記帳

◆令和3年となりました。本年も羽村臨済会をどぅぞよろしくお願いいたします。

◆新型コロナウイルス感染症が世界を覆い、懸念された第3波が日本でも海外でも更に猛威を振るつています。本稿、12月4日の時点で世界中の感染者は6,300万人、死亡者は147万人を越えています。日本国内でも感染者は156,000人、死亡者は2,300人以上です。皆様がこの文章を目にされる時には、どれだけ増えているでしよぅか。

◆罹患された方、亡くなられた方、そのご家族に心よりお見舞い申し上げます。 また、日々危険と向き合いながら最前線で働く医療従事関係者の皆様やそのご家族には心から敬意を表するとともに、深く感謝を申しあげます。

◆まだまだ不便が続きますが、有効なワクチンが出来たとの報道も出ており、外国では接種も行われ始めています。効果が本当に有効で、副作用も無ければ良いのですが、日本国内でワクチンが普及するまでにはもうしばらく時間がかかりそうです。それまではマスクや手洗い、うがい、蜜を避け距離を取るなど、基本的な事、出来る事をしっかりやって、お互い助け合っていきましょう。

◆今まで当たり前だった事が、実は当たり前では無かったという事が良く判った一年でした。行事という行事は皆中止、親子ですら感染を危惧して会えないとか、目に入れても痛くない程可愛い孫にも会えなくて寂しいといった声も沢山耳にしました。

◆「当たり前」の対義語、反対の言葉は、「ありがたい」だといいます。漢字で書くと「有り難い」です。東日本大震災の時も当たり前が当たり前では無い事に気付かされましたが、このコロナ禍は私たちから更に多くの当たり前を奪い取ってしまいました。当たり前がどれだけ有り難いことかを忘れずに、ひとつひとつの機会を大切にして、これからの人生を送っていきたいものです。

◆「祥」という字は「めでたし」や「さいわい」という意味の漢字ですが、意外にもこの字には「わざわい」という意味もあるのです。災いがあった時、祭壇に生贄を供えて神様に祈ったところ、災い転じて福と為った事を表わしたもので、左側の偏、示すが祭壇を、右側の羊が生 贄を表わしています。コロナという禍いも、「当たり前」が「有り難い」事なのだと教えてくれたと考えれば、幸いと転じた事になるのかもしれません。一周忌のことを小祥忌、三回忌の事を大祥忌といいますが、大事な家族を亡くした厄を超えて、法要を営み前へ進んでいきましょう。という意図があるのです。法要には 必ず効果があります。コロナ禍の中でこそ、規模は小さくとも法事や供養をして頂きたいものです。
(禅林 恭山)