慧光(えこう) (各タイトルをクリックすると詳細ページが表示されます)

「慧光」は、東京都羽村市の臨済宗のお寺(一峰院、禅福寺、禅林寺、宗禅寺)で設立された「羽村臨済会」の季刊誌です。

第153号 令和元年 盂蘭盆号

慧光153号

令和も「今ここ」
禅林 恭山
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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令和も「今ここ」

元号が改まり、「令和」の時代がはじまりました。最初の元号「大化」から248番目です。元号は中国ではじまり、かつては広くアジア圏で使われた制度でしたが、現在元号を使っているのは世界中で日本だけとなりました。よくぞ残してくれたと思いませんか。是非とも、令和を良い時代にしていきたいものです。

早速、令和を社名に入れる会社が百を越えたそうです。会社の繁栄を願って新たなスタートを令和と共に切って行こう、という事でしょうから、良い事だと思います。しかし本来、元号は勅許、天皇陛下の許可無く使えないものでした。皆様の菩提寺の本山は御存知のように鎌倉の建長寺です。建長寺は元号が「建長」の時に建てられました。こうした元号を名前にした寺はそれほど多くなく、延暦寺、仁和寺、建仁寺、寛永寺などが代表的ですが、延暦寺、仁和寺は創建当時は違う名前で、後から元号を寺名にしています。創建当時から元号を冠された建長寺は、実はそれだけ日本にとって特別なお寺なのです。

建長寺は建長五年(1253)、鎌倉幕府五代執権、北条時頼が開山に宋(中国)から蘭渓道隆禅師を迎えて建立しました。正式名を『建長興国禅寺』といいます。「仏教の正面」といわれる禅の教えによって、日本国の繁栄を願ったのです。

禅とは「今ここ」の教えです。お経を読む時はお経に成り切れ、ほうきを持ったらほうきに成り切れ・・今ここの自分があるべきもの、やるべきものに成りきれという単純な教えです。世界には決まった時間には仕事中であっても礼拝をしなければならない宗教や、のべつ幕無しに呪文を唱える宗教が存在します。それが悪いとは言いませんが、禅ではお経は読むべき時にしかよみません。本尊すら決まっていないのです。仕事の時は仕事三昧釈迦も阿弥陀も忘れて良いのです。

日本は鎌倉時代からずっとこの「今ここ」を実行して来たお陰で、国土が狭く資源も乏しいのに繁栄してきたのです。「令和」がどんな時代になるかは、私たちの「今ここ」の積み重ね次第です。
(禅林 恭山)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その16

◆白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく 衆生の他に仏無し
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
例えば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うことならず
六種輪廻の因縁は おのれが愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏み添えて いつか生死を離るべき
それ魔訶衍の禅定は 称歎するにあまりあり
布施や特戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
その品多き諸善行 みなこの中に帰するなり
一座の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いずくにありぬべき 浄土すなわち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳に触るる時
讃歎随喜する人は 福を得ること限りなし
いわんや自ら回向して 直に自性を証すれば
自性すなわち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門開け 無二無三の道なおし
無相の相を相として 行くも帰るもよそならず
無念の念を念として 謠うも舞うも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処すなわち蓮華国 この身すなわち仏なり

坐禅和歌・意訳
我々はもともと仏である 水と氷のようなもの
水を離れて氷なく 我々のほかに仏はない
皆、近くの仏を知らないで はるか遠くに仏を求む
それは水の中にいながら 渇きを求めるようなもの
裕福な家の息子が 物乞いするようなもの
六道輪廻の始まりは おのれの愚かさよるなれば
悩みに悩みぬいても 闇が晴れるとは限らない
坐禅による禅定 素晴らしきものである
布施行、持戒行の善行 念仏、織悔、修行など
全ての善き行いは 禅定あってのことである
ひとときの坐禅の禅定が 積んだ罪を滅してくれる
悪しき心はどこにあるか 善き心もすぐそばにある
ありがたくもこの教えに 触れる機会を得たとして
教えを受け入れたならば 幸福無限のこととなる
まして自ら行を積み 自己の本性感じれば
自己は即ち無性にて 言葉や理屈はいらぬもの
因果の道理に目が開けば 進むべき道は一つとなる
形なき形こそが真実となり どこにいても自分の場なり
心のひっかかりがとれれば 自らの行いすべて仏の現れ
遮るものなき空のように 心に智慧の月が照らされる
この上何を求めるのか 求めるものがないからこそ
今この場こそ蓮華国であり この身がそのまま仏となる

坐禅和讃シリーズ最終回です。
父母恩重経に続き、お経の意味を書かせていただきました。
禅は心こそが大事であると説きます。我々は無数の因縁の元にこの世に命をいただきます。日本のような裕福な国に産まれる子もいれば、紛争地域の難民キャンプで産まれる子、障害を持って産まれる子もいます。生まれの境遇に差はありますが、裕福な国に生まれたからといってそのまま幸せになるわけではなりません。財産や地位や物質的な豊かさよりも心の静けさ、穏やかさがあれば、そこに仏の智慧が現れると白隠さんがおっしゃっています。仏様にお参りをして合唱する。そこに蓮華国があります。
(宗禅寺 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第十三話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。

「かるみ」蕉風の完成
「おくのほそ道」の旅において芭蕉は「不易流行」を一歩進めた「かるみ」という境地に至ったのだと前回お話しました。「不易流行」も「かるみ」も蕉風の作風を説明するものとしての言葉ですが芭蕉の人生観そのものともいえるのです。

若い頃は覇気もあり、未来に大きな希望を持って生きていても、年を経て自らの老いと向きあった時、身も弱り病がちになったり、親しい人々との死別、自らの死への覚悟と、なかなかに思い描いていた幸せな人生はやってこない、幸福とは虚妄に過ぎないのではないか?それどころか人生とは悲惨なものなのではないか?

ではその悲惨な人生をどう生きていけばよいのか。大きく二つの道がある。一つは嘆くこと。もう一つは笑うこと。俳詰はもともと言葉遊びの中から発生したものでその中で生きてきた自分(芭蕉)にとっては人生は悲惨なものと覚悟しつつ、だからこそたまにある幸福をより喜び感謝したい。

「おくのほそ道」以降の芭蕉の句にはこうした人生への深い諦念が感じられます。苦しい、悲しいと嘆くのは当たり前の事をいっているにすぎない。今さらいっても仕方がない。ならばこの悲惨な人生を微笑をもってそっと受け止めれば、この世界はどう見えてくるだろうか?つまり「かるみ」とは嘆きから笑いへの人生観の転換だったのです。

俳詣はもともと滑稽の道、笑いの道でした。「かるみ」はその滑稽の精神を徹底させることにもなったのでした。その「かるみ」は時代を超え、後世の俳人にも受け継がれていきました。

病の床にあった正岡子規が「悟りといふ事は如仰なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は知何なる場合にも平気でいきて居る事であった」(『病床六尺』)と書いていますが、その平気ということは「かるみ」を子規として表現したものといえるでしょう。

参考文献
長谷川擢「奥の細道」をよむ
この項了
(一峰義紹)

禅寺雑記帳

◆令和最初のお盆を迎えました。日本では六百六年、推古天皇によって日本で初めてお盆の法要が行われたといいます。日本の最初の元号「大化」が645年ですから、それよりも更に古い、とっても歴史のある日本の伝統行事なのです。これからも未来永劫、大事に伝えて行きたいものです。それは今を生きる私たちの役目です。

◆今上天皇陛下は、初代の神武天皇から数えて百二十六代目と宮内庁のホームページに記載があります。神武天皇は紀元前六百六十年のお生まれですから、皇室の歴史は二千七百年近くもあるのです。

◆「神話の話をされても」という意見もあるでしょうが、存在が確実に確認されている代から数えても千五百年以上続いていて、わが国の皇室は世界の王室の中で最も歴史があるのです。誇らしい事です。

◆令和の典拠は『万葉集』からで、史上初めて日本の古典から引用されたという事も大変話題になりました。お陰で万葉集関運の本が売れまくっているそうです。

◆今回元号が変わる事をきっかけに、日本中が同じ方を向いて盛り上がっているように感じます。十月二十二日には「即位礼正殿の儀」が行われます。その日に日本中の各家庭全てが玄関先やベランダに日本国旗「日の丸」を掲げたらどんなに素晴らしい事でしょうか。国旗をお持ちで無い方、是非用意して一緒にお祝いしましょう。

◆今年も「羽村灯篭流し」が、八月三日(士)十八時三十分から宮ノ下運動公園にて行われます。今年で三十七回目となります。大勢の和尚による読経と、鎌倉流御詠歌の皆様の奉詠の中、多摩川に灯篭を流して供養するお盆の伝統行事です。家内安全、交通安全、青少年の健全育成などの祈願もいたします。

◆実行委員会の皆さんはこの日の為に二月から何度もの会合を行い、警察署や消防署、国土交通省、市役所等との協議を重ね、また炎天下での灯篭の販売等に励んで来られました。夕方の行事ですが当日は朝の八時から会場の準備をし、翌日も会場の清掃活動を行います。本当に大勢の協力によって成立する、とっても大変な、そして素晴らしい行事です。せっかくですから是非一人でも多くの方に御参加、御協力を頂きたいと思います。当日参加出来なくても、事前申込みで灯篭を流して供養して頂けます。一基千円です。詳細は各菩提寺にお尋ね下さい。なお雨天の場合は翌四日になります。

(禅林 恭山)

第152号 平成31年 春彼岸号

慧光152号

「平」和は「成」ったのか
禅福 泰文
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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「平」和は「成」ったのか

平成という時代が終わろうとしています。
中国の古典「史記」から、平成という元号を引いて三十年。時の政府は「平らになる」「平和になる」という文字に願いを込めて、平成という元号を採用しました。それから三十年、果たして額面通りに平和はやってきたのでしょうか。
平成はその前の昭和に比べて、少しはマシな時代だったのでしょうか。

誰れでも平和に暮らしたい、平穏な日常を送りたいと思っています。戦争や災害のない世界であって欲しいと思っています。それでは例えば、隣の家の子は東大に合格し、自分の子は引き込もり、隣は家を新築し、自分は失業して家を売り払わざるを得ないとします。それでもあなたは心の平和を保てますか。この世の不条理、理不尽さに、腹を立てませんか。人は人、自分は自分と割り切って、他人の幸せを祝福することができますか。少しでも嫉妬心がある限り、心の平和はやってきません。家庭の平和も世界の平和も同じことです。世界の平和を叫ぶより、心の平和を保つことの方が難しいのです。

心の平和の大切さを伝えるため、近年日本からも鈴木大拙をはじめ、多くの仏教者が海を渡りました。異教徒に仏陀の教えを説き、仏教信者もできました。しかしながら、いまだ世界は平和とは言えません。独善的な無神論者や一神教の狂信者が、手前勝手な論理で、この地球を牛耳ろうとしているからです。慈悲心のない損得勘定だけの独裁者ほど、危険なものはありません。

日本も偉そうなことは言えません。子どもを虐待する親、善人をだます詐欺師、イジメに犯奔する若者、責任を取らない人、利益至上主義の企業。これらは平成の三十年に目立ってきたことです。仏陀が一切の苦の根源だと説いた自己愛の為せる姿です。

戦争のない状態が平和なのではなく、他の幸福を願う「菩薩として生きる」人々が地上に溢れた時、本当の平和がやってくるのだと思います。まだまだ時間がかかりそうです。
(禅福 泰文)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その15

この時何をかもとむべき
寂滅現前するゆえに
当処すなわち蓮華国
この身すなわち仏なり
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

◆意訳
「この上何を求めるのか。悟りの世界はすでに皆の自の前に広がっている。自分のいる場所が極楽なのであり、自分自身そのものが仏ではないか。」

寂滅(じゃくめつ)
死ぬことを寂滅とも言いますが、ここでは涅槃、仏教の目指す悟りの世界のこ
とを指しています。

禅の涅槃(悟り)とは
仏教や禅における涅槃、つまり悟りの境地とは一体どういう世界なのでしょうか。悟りを開く。何か言葉では言い表わすことができない不思議な力が自分自身に舞い降りて来るのか。空中浮遊できるようになるのか。百五十歳まで元気でいられるのか。未来を予知できるようになるのか。残念ながら禅の悟りというものは、そういった類いの非現実的な不思議な力を得るというものでないのです。仏教や禅の教えというのは、ある意味では非常に現実的なものです。

悟りと覚り
悟りは覚りとも書きます。つまり「目覚め」のことです。目覚めるということは、自分を取り囲んでいる世界が変わるということではありません。自分の身に起こったある経験を境にして、今迄の自分では見ることができなかったことが見えるようになる。あるいは感じることができなかった部分を感じれるようになるということです。例えるなら、重病を患った人が奇跡の復活を果たしてみると、毎年当たり前のように見ていた桜の花の美しさ、毎日顔を合わせていた家族の存在の尊さ、自分自身がしっかりと生きていることの素晴らしさに気づく(目覚める)ということでしょうか。

日常の中の好時節
禅の世界に「春に花あり、秋に月あり、夏に涼風あり、冬に雪あり、もし閑事の心頭にかかるなくんば、すなわち是れ人間の好時節」という言葉があります。あれやこれやとつまらぬ事を心に煩うことがなければ、春夏秋冬、季節を選ばず、年中が人間にとって好い季節である。という意味の言葉です。我々が社会の中で生きていく以上は、いくらかの不案や心配事がつきまとうこともあるでしょう。しかしながら、春の麗らかな陽気に出会ったり、ご家族皆様で過ごす時聞があったり、仲の良い友人たちと過ごす甘美な時聞があることも確かです。日常の中の素晴らしき時間をしみじみと味わうことができるのであれば、そここそが涅槃なのです。
(宗禅寺 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第十二話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。

「おくのほそ道」5
芭蕉の残した紀行文の中でも、最も著仰なものといえるのが、この「おくのほそ道」です。前回までこの作中の句を観ていきながら、その作風の変化をお話してきました。

旅の始めにあたり詠まれた句と、最後の句はどちらも「別れ」を題材としたものです。そこには大きな作風の違いがありました(前回参照)。この旅を通じて、芭蕉にどういった心境の変化があったのでしょうか?

以前「蕉風(しょうふう)」(芭蕉の作風)において「不易流行(ふえきりゅうこう)」という重要な価値感があるとお話しました(松尾芭蕉医9)。「不易」とは永遠不変の事。「流行」とは変わりゆく事です。我々は変わりゆくものの中で生きていますが、視点を大きくもてば、変わりゆく事実そのものが日常であり不変なのだという価値観です。宇宙的視点ともいえる壮大なスケールを持つ句を出羽(山形)から越後(新潟)の旅において残していて、それを我々に伝えています。

うってかわって、その後の旅では「別れ」がテーマとなったかの様に多くの別れを芭蕉は体験し、句に詠んでいきます。では「不易流行」はやめてしまったのでしょうか?そうではなく、宇宙的視点から人間を、自分自身を観て、句を詠んでいるのだと考えます。人生において「別れ」はつきものです。旅においては毎日が「別れ」の連続でしょう。この「おくのほそ道」に「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也」という序文を残した芭蕉も「人生=別れ」という思いを強く持っていたのだと思います。その「別れ」をことさら嘆き悲しむのではなく、「これもまた人生」という風にとらえ、受け入れていく。これが芭蕉のこの旅においてたどり着いた「かるみ」という境地なのです。それがこの旅の最初の句と最後の句にあらわされているのです。

ここで唐の詩人干武陵(うぶりょう)の詩と、井伏鱒ニ(いぶせますじ)の訳を紹介します。(後半のみ)

花発多風雨 花発(はなひら)けば風雨多し
人生足別離 人生 別離足(べつりた)る

ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
以下次号(一峰 義紹)

禅寺雑記帳

◆私たちの宗派、臨済宗の僧侶がボランティアで運営する『吉縁会』という組織があります。いわゆる婚活を支援するも入会金や年会費、成婚費用などはので、一切掛かりません。これまでに一万八千人以上の会員がいて、八百組以上の結婚が成立しているそうです。

◆会の当日は、和菓子作り、坐禅、精進料理つくり、数珠作りなど毎回異なる体験を皆で行った後、異性の参加者と五分ずつの談話をしていく、という流れになっていて、この実費(三千円程度) のみが自己負担になります。

◆参加にはまず登録が必要です。登録の資格は、二十五歳から四十五歳までの男女で、インターネット、メールが使える事が条件になります。パソコンが無くてもスマートフォンが使えれば問題ありません。会からの連絡もすべてネットを介して行われ、郵便物が送られることはありません。

◆登録は指定された日時に、本人自身が指定のお寺へ行って担当の僧と会わなければならず、代理人では受け付けられません。また事前登録をネットで行う必要があります。ボランティアなのでいつでも行っている訳ではありません。事前登録は、先着順で締め切られます。一度登録すれば、日本の各地で開催される会への参加が可能になります。

◆次回東京地区の登録日は三月三十一日、事前のネットでの予約締切は三月二十九日となっています。興味のある方は『吉縁会』で検索してホlムベlジで詳細を確認下さい。すべてはそこに掲載されています。それを理解出来る事も参加資格の筈です。まずは一歩を踏み出してみましょう。
(禅林恭山)

第150号 平成30年 秋彼岸号

慧光150号

日本人は無宗教なのか?
宗禅寺 高井和正
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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日本人は無宗教なのか

日本人は無宗教であるとよくいわれます。
NHKの1996年の「全国県民意識調査』によれば、日本人の70%もの人々が「信仰を持たない」と回答したそうです。
都道府県別に見ると、地域によってばらつきがあり、沖縄は飛び抜けて高く、9割の人々が信仰を持たないと回答しています。逆に北陸や広島は「信仰をもっている」人が多い地域で、撞井では5割を超えます。
では、我々の住む東京はどうかと言えば、「信仰を持っている」と答えたのは27%という全国的に見ても少ない方になるそうです。
また、内閣府の平成26年度の若者への意識調査において、「宗教が日々の暮らしの中で拠り所となるかどうか」という質問に対し、「ならない」と答えた人は64%に対し、「なる」と答えた人は18%でした。
これらの数字だけ見れば、確かに日本人は無宗教なのかもしれません。ただ、本当にそうなのでしょうか?

日本人は無宗教である。この見方は、ある一つの視点からの見方に過ぎません。
それは外国人からの観点、つまり海外と日本とを比較しての見方です。

そもそも日本には「宗教」という日本語自体が存在していませんでした。幕末にペリーが来航してからアメリカとお付き合いをする過程で、英語のReligion(レリジョン=宗教)という一言葉を翻訳する必要に追られ、好余曲折を経て「宗教」という言葉が採用され、明治時代に広く使われるようになったそうです。
そういう意味では文字通り日本は無宗教な国だと言えます。しかし、ペリーが来るずっと以前からお伊勢参りも、祇園祭りも、彼岸会も念仏講もあったのは確かです。

秋のお彼岸のお中日は秋分の日という国民の祝日です。国民の祝日にはそれぞれ意義が設定されていて、秋分の日は「祖先を敬い、なくなった人々をしのぶ」とされています。お彼岸のお墓参りも初詣もお祭りのお神輿も除夜の鐘も宗教的行為かもしれませんが、それらを日本人は信仰とか宗教とは思っていないのです。

あえて言うなら、宗教という言葉を引っぱり出してわざわざ表現する必要がないほど、国民的な習慣として、生活の奥深くに根っこづいて溶け込んでいるものだと言えます。

心配なのは、「日本人は無宗教である」と、当の我々日本人自身が自ら思い込んでしまうことです。神社やお寺は日本人の心の形成と深く関わっているはずなのです。
(宗禅寺 高井和正)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その13

無念の念を念として歌うも舞うも法(のり)の声
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

◆意訳
「今の心を後に残さず生きてゆけば、何をしていても仏の安らかな心のままなり」

残念と無念
残念無念という言葉があります。非常に心残りである。悔しいという意味の言葉です。残念も無念も一般的な日本語では同じ意味として使われますが、仏教においては正反対の意味で使われる言葉です。

無念の念を念として。早口言葉のようでもありますが、普通の日本語で見てしまうと、悔しさを忘れずに心に留めておく、という意味に捉えることもできます。ただし仏教の場合は、無念は一切の後悔を残していない、つまり迷いから離れた心のことで、悟りの心を表わす言葉なのです。

無念の念を念として
明治時代、禅の僧侶で原坦山(はらたんざん)という方がおられました。坦山和尚、若い時分に仲間の鵠侶と諸国行脚をしていた時の話です。
坦山和尚、旅の道すがら橋の架かっていない川に差し掛かりました。普段であれば歩いて渡ることができそうな深さの川でありましたが、先日の雨の影響か水かさが増しており、渡るのを躊躇してしまう水の勢いです。さてどうしたものか。
周囲を見てみると、向じく困った顔で川を見つめて立ちつくしている一人のうら若い女性がおりました。やがてその女性は着物の裾をたくし上げ始めます。どうやら歩いて川を渡る決心をしたようです。やおら坦山和尚、女性に駆け寄り、背中におぶって川を渡してあげると申しました。女性を背負った坦山和尚は、川の向こう岸まで捜してあげることに成功し、お礼を言う女性を残してさっさと旅路を急いだのでした。心中穏やかでないのは仲間の舘侶です。女性と別れて二人で歩き始めてから、「修行中の僧侶が自ら女性を背負うとは何事か!」と、坦山和尚を答めます。すると、坦山和尚高笑いをしながら一言返しました。「なんだ。お前はまだあの女性と一緒にいたのか。俺はとっくにあの川原で下ろしてきたよ」と。

念という字は
念という漢字をよくみてみると、「今の心」と書きます。無念の念を念としてとは、今の心を後に残さないということです。我々には喜怒哀楽という感情があります。自分の身に起きた良いことも悪いことも、しっかりと受け止めつつも後に残さない、感情にこだわり過ぎないことが大事であると説かれています。過去にこだわりすぎると今を見失ってしまう。ということでしょうか。
(宗禅寺 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第十話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。


芭蕉の残した紀行文の中でも、最も著名なものといえるのが、この「おくのほそ道」です。前回に引き続きこの作中の句を観ていきたいと思います。

市振の関(いちふりのせき)(新潟県西部、現在の糸魚川市)を経て、越中(富山)、加賀(金澤)、越前(福井)から大垣(岐阜県大垣市)、に至る、この紀行文の最後を飾る道中となります。ここで芭蕉は多くの別れに直面します。

一家(ひとつや)に遊女もねたり萩の月
市振の関にて詠まれた句です。たまたま同じ宿にお伊勢参りの道中である遊女が泊まっていました。翌朝、出立にあた
り遊女から伊勢まで同道させて欲しいとお瀬いされました。やはり女性二人旅は当時の環境では心許なかったのでしょう。しかし、芭蕉は「お伊勢参りの道中の人はすでに天照大神に守られている」といって素気無く断ります。ここで遊女と別れます。

塚も動け我泣声(わがなくこえ)は秋の風
金沢で一笑(いっしょう)という俳人と会うのを楽しみにしていた芭蕉でしたが、着いてみれば前年の冬若くして亡くなっていたのでした。その一笑を追悼して詠んだ句です。君の墓前で私は秋風のようにすすり泣いているという悲惨な現実と「塚も動け」という激しい衝動の取り合わせが印象的な句となっています。ここでも芭蕉は別ここでは芭蕉は多くの別れにれを体験します。

今日(けふ)よりや書付(かきつけ)消さん笠の露

金沢を過ぎ、山中温泉に逗留していた芭蕉一行でしたが、同道の弟子曾良(そら)がお腹を壊し、それが良化しないため伊勢の長島の知り合いのもとへと先に旅立つ事になったのでした。その弟子との別れにあたり詠まれた句です。残された私の笠は涙に濡れた様に露がついている、これからは笠に書かれた「同道二人」の文字を消して行こうという意味です。

この様にそれまでの宇宙観的視点で詠まれていた句は無くなり、旅の佳境といっていいこの終盤において、また大きな
句読の転換がみられます。別れの句はまだあるのですが、また次号より観ていきたいと思います。

以下次号
(一峰 義紹)

禅寺雑記帳

◆暑さ寒さも彼岸まで、ようやく長く異常に暑かった平成最後の夏が終わりました。六月中に梅雨が明けてしまい、以後各地で史上最高気温を更新、お隣の青梅でも40度を超えたとニュースになりました。熱中症で救急搬送された方、亡くなられた方も過去最高を記録しました。

◆西日本を中心とした豪雨では220人もの方がなくなられ、土砂崩れや浸水による被害も甚大でした。この豪雨によ
り被災された皆様ならびにそのご家族の皆様に心よりお見舞い申し上げます。被災地の皆様のご無事と一日も早い復旧をお祈り申し上げます。明日は我が身、出来る範囲で支援をしていきたいものです。

◆何十年に一度の猛暑と言われましたが、このような暑さが今後は毎年のように続くのかもしれません。開催まであと2年を切った東京オリンピックがどうなることやら、とても心配です。暑さ対策としてサマータイム導入の意見も出ています
が、既に導入していたロシアは国民の不満からこれを廃止していますし、EUでも8割が廃止を訴えている制度であり、
時代に逆行している感が否めません。技術大国日本ですから、何か別の方法を見つけられないものかと思います。

◆今年になって、レスリング、ボクシング、アメリカンフットボール、体操などアマチュアスポーツの指導者や幹部によるパワハラや審判不正などの問題が相次いで表面化しました。徹躍的に問題を洗い出して、こちらも東京オリンピックまでに改善して欲しいものです。

◆サッカーワールドカップロシア大会では日本代表が活躍し、とても感動しましたが、その裏で、あの大会のテレビ放映権料を、日本が600億円も支払っていたというのです。そのうちの6割をNHKが、残り四割を民放4局で負拒したそうです。世界中の国々が同じような額を支払うのであれば納得もいきますが、日本だけが突出して高く、全体の三分の一近くを日本が支払ったというのです。NHKのお金は私たち国民の受信料ですから、納得のいく説明をして欲しいものです。

◆この事はほとんど報道されておらず、知らない方が多いようです。主催者のFIFAと各テレビ局の間には某広告代理屈が入っているといい、マスコミはこれを怒らせると広告を貰えなくなるから報道出来ないのでしょうか。こういう問題をこそ国会で明らかにして欲しいものですが、どうでも良い事を延々と操り返して、足を引っ張りあっているだけに見えます。

◆身体障害者の水増し雇用の問題では、手本を示すべき中央省庁が3460人もの水増しをしていた事が明らかになりました。色んな所で日本という国のタガが外れてしまっているようで、この先どうなるのかとても不安です。
(禅林恭山)

第148号 平成30年 春彼岸号

慧光148号

神と仏と
禅林 恭山
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その11
宗禅寺住職 高井和正
禅と共に歩んだ先人 第8話
一峰 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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詳細ページ準備中

第147号 平成30年 正月号

慧光147号

「天」は見ている
禅福 泰文
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その10
宗禅寺住職 高井和正
禅と共に歩んだ先人 第7話
一峰 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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第146号 平成29年 秋彼岸号

慧光146号

今年の夏をふりかえる
宗禅寺 高井正俊
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺住職 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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今年の夏をふりかえる

気候変動の激しかった夏、16日間連続の雨、その中で8月5日には、羽村とうろう流しの第三十五回が、禅福寺田島和尚のもと、挙行されました。

個人的に私にとって、今年の夏は特別のものとなりました。7月5日から9日間のイスラエル巡礼、8月6日の長野松本の浅間温泉、新宮字さんの第二十回目開催の原爆忌への表敬訪問。5月27日に宗禅寺の住職を和正和尚に譲ったので、責任を若和尚に託してできたことです。

イスラエルに行ったのは、鎌倉のカトリック雪の下教会の山口神父さんからのお誘いによります。鎌倉では宗教者会議といって、神道・仏教・キリスト教の三者が3・11の追悼復興法要、各宗教の勉強会、交流の集いを行っています。交流から、キリスト教のミサやイエスキリストそのものを現地イスラエルで体験し、この目で確かめたくなりました。

テルアビブから若いキリストが伝道布教に励んだガリラヤ湖周辺、山上の垂訓教会(狭き門より入れ、求めよされば与えられんの教会)やパンと魚の教会、ユダヤ教の会堂跡をみて、カナやナザレの受胎告知教会、死海の浮遊体験、マサダ、クムラン、そしてエルサレムのキリストが十字架を背負って歩いた道、ヴェルツヘムの生誕教会等を巡礼してきました。

キリスト教とイスラム教は共にユダヤ教の中から生まれています。ユダヤ民族・アラブ民族・ゲルマン民族など、宗教と民族の混淆を見せてもらいました。緊張の中の平和、何かあると暴力事件が起きそうです。ただ観光客が直接被害をうけることはなさそうでした。

神宮寺さんの原爆忌は以前から行きたかった所で、やっと行くことができました。丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」15部作から「幽霊」と「灯篭流し」が、「沖縄戦の図」から米軍が初めて上陸した読谷村の「残波大獅子太鼓」の計三作品が本堂に展示され、その中で金城実さんと高橋住職の対談を間近に見聞しました。特に、沖縄が受けた地上戦のことが心にのこりました。兵隊だけでなく、沖縄の住民が否応なく戦に巻き込まれ、悲惨な体験をさせられました。この事は、沖縄の人にしか解らないものです。本土や内地にいる人達の戦争体験とは比べようもないものです。沖縄が受けたこの事実を、私たちはしかと見つめなければいけないでしょう。

イスラエルのユダヤ教、イスラム教、キリスト教、そして民族の対立。この中からだからこそ、平和が切実に求められるのだろうと思います。日本の場合は、終戦記念日・原爆・沖縄から平和への意識が求められます。

 この地には「横田基地」もあります。北朝鮮とアメリカとの対立もますます激しくなってきています。

 戦後72年、日本は与えられた平和のおかげで発展し、豊かな生活を送ることができました。今こそ、地上戦の苦しみをしっかり受け止めるからこそ、平和の有り難さと維持が必要になってきます。与えられた平和を保つために何をしなければいけないのでしょうか?

(宗禅寺 高井正俊)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その9

辱(かたじけ)なくも此の法(のり)を一たび耳にふるる時
讃嘆随喜(さんたんずいき)する人は福を得(う)ること限りなし
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

◆意訳
有り難いことにこの教えを一度でも耳に触れる機会をいただき深く信じて受け入れられる人は必ず幸福を得ることでしょう

純一無難の心
「じゅんいつむざつ」あるいは「じゅんいつむぞう」と読みます。雑味がなく純粋一途な心の姿を表している言葉です。私が三島瀧澤寺でおせわになった亡き死活庵中川球童老師が、入門当初の私に口を酸っぱくして言い聞かせて下さった言葉でもあります。「ええかい、修行の第一歩は純一無雑からじゃぜ。先輩から言われたら、はい!と、返事して、余計なことを考えずに言われた通りにやるんじゃ」。聞かされていた当初は、そんなに何遍もおっしゃらなくてもと思っていましたが、日々を過ごすうちに老師の言葉の重みを感じるようになりました。

人生の出会い
我々の日々の生活の中には必ず出会いがあります。皆様が自分の人生を振り返ってみても、「この出会いが私の人生を変えた」と思えるものが必ずあるものではないでしょうか。そして、その出会いは人間同士の出会いばかりではないように思います。白隠禅師にとっては一枚の地獄絵図がそうであったように、絵画や音楽、一冊の本、普段何とも思ってなかった両親や友人の何気ない一言や非日常的な場所での体験など、その出会いは人によって様々だと思います。もしかすると、我々は自分の人生を変えるようなものに出会っていながら、それに気づいていない場合もあるのではないでしょうか。

私は親戚でもある、市内の禅林寺様からのご縁で宗禅寺にやってきました。初めて禅林寺様にお会いしたのは、母方の祖母の葬儀式でのことだったように記憶しております。そのときは私も中学生でしたので、普段あまりお会いしない親戚の方という認識しかありませんでした。まさか、このような深い関りを持つことになるとは思ってもいませんでした。出会いとは分からないものです。

人生は一瞬で変わる
白隠禅師は一たび耳にふるる時、つまり我々が初めて出会った時に讃嘆随喜できる心の状態でいるのかどうかを我々に説いて下さっているように思います。日頃から自分の心を常に純一無雑にしていれば、つまらない観念に縛られることなく、素晴らしい人生が待っていることを伝えて下さっているような気が致します。

(宗禅寺 住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第六話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。

「野ざらし紀行」続き
芭蕉はその生涯において多くの紀行文(旅に出てその土地の文化や風習などを紹介する文)を残していますが、その最初となるのが、この「野ざらし紀行」でした。旅立つにあたり禅的悟りを得んと覚悟し、実際この旅館で芭蕉の作風が徐々にかわっていき、のちに「蕉風」と呼ばれることになる自らのスタイルを確立させたという事。また「物我一致」という境涯を得て、それが作風の変化に大きく寄与したと前回述べました。「物我一致」とは「物(自分以外のもの、つまり対象)と「我」を分けない、つまり「無分別」の境涯をいいます。無分別とは自分の無い状態、つまり無我の境地でそこに物だけが残る、自らが物になりきる。これが「物我一致」の境涯です。

海暮れて 鴨の声 ほのかに白し
これは尾張(現代の愛知県東部)の海を見て詠んだ句です。五・七・五が俳句の定型ですが、これは五・五・七と破調となっています。定型通りとすれば「海暮れてほのかに白し鴨の声」となり、これでも良い句といえそうですが、これでは白いのは鴨の声となってしまいます。実際そう解釈する向きもあります。詩人的表現によって鴨の声を視覚化したものとする解釈です。しかしそれではあえて破調にする理由が無くなってしまいます。「海暮れて」と入り、すぐに「鴨の声」とくる事によって聞き手はクーックーッという鴨の鳴き声を思い浮かべます(鴨の姿では無い)。さらにそこで「ほのかに白し」と来る事で聞き手はうすぼんやりとした白い色を脳裏に浮かべます。この順で詠む事により、うすぼんやりとした霞の中からクーックーッという鴨の声が聞こえて来る情景を表現したと考えるべきかと思います。そう考えた時に上の句の「海暮れて」は状況説明的なもので分別的になりますが、「鴨の声」はまさに「鴨の声」でしかなく、「ほのかに白し」もまさにそれだけになります。芭蕉自身クーックーッ、という声になり、また白になりきった無分別の境涯を詠んだものと思います。先に著した「海暮れてほのかに白し鴨の声」では分別から離れられず、その状況にいる芭蕉自体を想像させられますが、その違いにこそ、芭蕉がこの旅で得た「物我一致(一智)の境涯を感じます。
以下次号
(一峰 義紹)

禅寺雑記帳

◆早くも秋のお彼岸となりました。二ヶ月表示のカレンダーは、あと一回しかめくることが出来ません。終わりよければすべて良し、2017年は良い年だったと振り返られるように、残りの日々を大事に過ごして行きましょう。

◆今年の夏は本当に異常気象で、日本でも世界でも記録的な豪雨による甚大な被害が多発
しました。被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。

◆八月の東京都心は日照時間が史上最短だったとの事。雨が降らなかった日が4日しかなく、農作物への悪影響や、レジャーなどで期待された消費が見込めなかったなどの被害も相当だと思います。夏は夏らしく、適度に暑くあって欲しいとつくづく感じました。このお彼岸は穏やかな、良い秋でありますように。

◆とはいっても、豪雨や地震といった天災は人間の力ではどうしようもなく、仕方がないとあきらめるしかりません。しかし人の頭越しにミサイルを打って来る独裁者による人災は勘弁してほしいものです。ミサイルの実験が上手くいくは限らず、途中で落下する可能性もありますし、飛行機や漁船にぶつかる事も考えられます。何があっても責任を取るつもりも反省の言葉も無いことでしょう。あの行動で、国民が幸せになれる筈がありません。誰が得をするのでしょうか。

◆来年開催されるサッカーのワールドカップ決勝大会に、日本が堂々と進出を決めました。自分が勝ったように嬉しく思います。文明のある現代、戦争によって命を奪い合う愚かさを捨てて、国と国はスポーツによって正々堂々と戦って欲しいものです。

◆決勝大会進出を決めたオーストラリア戦で2点目のゴールを決めた井手口選手は、21歳の若さですが既婚で、娘さんもいるそうです。奥様は母親が病気で余命半年と宣告された際に、安心させる為に結婚したとスポーツ紙にありました。

◆井手口選手は「嫁と娘は俺が守る!という気持ちはでかい。自分のために、というより、誰かのための方が頑張れる」と語ったそうです。さすが日本の代表、人柄も素晴らしいではありませんか。

◆誰かの為にと頑張ることが、すなわち自分の為になる、これは仏教の『自利利他』です。自分を高めれば、他人や世の中に対してより役に立つ事が出来るのです。

◆先の井手口選手の活躍は、亡くなられたお義母様にとって本当に誇らしく、何よりの供養になった筈です。お彼岸は先祖を敬い、自分を高めて今日命のある事に感謝を捧げる仏教徒にとって大事な期間です。私達はそれぞれ、生きている限り先祖の「代表」です。相応しい生き方をしているか、この期間に見つめていきましょう。
(禅林恭山)

第145号 平成29年 盂蘭盆号

慧光145号

盂蘭盆を迎えて
宗禅寺住職 高井和正
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺住職 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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盂蘭盆を迎えて

盂蘭盆を迎えました。正式には「盂蘭盆(うらぼん)」と一一還って、古来より亡きご先祖様がご自宅に戻ってこられる日であると云われている期間です。
一言に盂蘭盆と言っても、その時期は地方によって異なります。
一般的にはお盆は八月十三日〜十六日になりますが、羽村や近隣の地域のお盆は七月十三日十六日になります。
私が六年間お註話になった龍澤寺のある三島や近隣の伊豆半島北部地域では、七月と八月に加え、養蚕業の繁忙期を避ける意味で、晦日盆(みそかぽん七月三十一日〜八月三日) の地域もありました。

お盆飾りの支度は、始まる前の日までに済ます地域と、お盆入りの日にする地域の両方があるようです。机や専用の棚の上に真菰(まこも)のむしろを敷いて精霊棚を支度します。精霊棚にお位牌を安置していただき、ご先祖様の行き帰りの乗り物になる潟と牛をナスとキュウリで作っていただき、帰ってくる時の目印のために鬼灯(ほおずき)や提灯でお飾り致します。

仏教のお供え物はお膳とお菓子と果物と生花が一般的ですが、お盆には特別に「水の子」といって、洗米にナスとキュウリを細かく賽の目に切ったものを蓮の葉を敷いたお皿に用意したり、素麺や夏野菜もお供えしたりします。また、食べ物をお供えする時は、故人がお好きだった食べ物を特別にご用意していただくと、より良い供養になります。

精霊棚の準備ができ、お盆期間を迎えたら、夕刻(黄昏時)に迎え火を焚きます。ご自宅の立関先で焚くのが一般的ですが、ご先組様の墓地前で火を焚き、その火を蝋燭に移して、ご自宅に持って婦って精霊棚の蝋燭に移す嵐習もあります。

供養の仕方はお線香を焚くだけではなく、禊萩(みそはぎ)の花束(五〜 六本)の先端を水に浸して、その水をお供え物に手向けてあげるやり方が一般的で、これを水向けと言い、お寺のお盆供養である、施餓鬼法嬰でも水向けがされています。

最近では、お盆飾りがスーパーなどで売られており、使利な時代になりました。
便利なれども、支度はお一人でするのではなく、ご家族皆様で行なっていただき、みんなでお盆をお迎えしていただけると有り難いです。

(宗禅寺住職 高井和正)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その8

一坐の功を成す人も
積みし無量の罪ほろぶ
悪趣何処に有りぬべき
浄土即ち遠からず
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

※悪趣
悪業を積んだ後、趣くとされる世界のこと。地獄界・餓鬼界・畜生界を三悪趣という(修羅界を含めて四悪趣ともいう場合がある)。

◆意訳
「たとえ一日の内の僅かな時間であっても、坐禅をすれば、積んでしまった悪業による罪は消え失せてしまうであろう。
地獄など、一体どこに有るというのだろうか?極楽浄土もまた同じで、どこか遠くにあるものではなく、自らの目の前にあるものではないだろうか?」

坐禅とは?
坐禅和讃は白隠禅師による「坐禅のススメ」とも言えるお経です。「一日の内のわずかな時間でも坐禅をしてみてはいかがでしょうか」と、白隠禅師がおっしゃっています。禅宗は坐禅宗とも言いますが、では肝心の坐禅とは一体何なのでしょうか?

アニメにもなった禅宗の有名な和尚さんに一休さんがおられます。その一休さんが次のような言葉を残されています。
「一寸の線香 一寸の仏 寸々積み成す 丈六の身 三十二相八十種好 自然に荘厳す本来の人」

三十二相や八十種好は仏様の特徴のことで、お線香が一寸燻る問、誠の坐禅をすれば、そのまま仏となれるとおっしゃっています。

仏像は心の象徴
仏のお姿を形として具現化したものに、仏像があります。お釈迦様や観音様やお地蔵様など、様々な仏様が宗禅寺にはおられます。鎌倉の大仏様や建長寺のお地蔵様など、ほとんどの仏様に通しているのは、その御姿、表情の穏やかさです。
実際に面と向かって手を合わせてみると、自分の心が落ち着いたり、逆に自分の慌ただしい心に気付いたりと、仏像を拝むことによって自らの心を振り返ることにもなるようです。

坐禅をするということも同じことではないでしょうか。坐禅をすることがもたらしてくれるものは、心の平穏です。人間には誰しも喜怒哀楽の感情があります。感情は時として人生を豊かにしてはくれますが、時としては他人や他ならぬ自分自身をも傷つけてしまうことがあります。

一日のうち、わずかな時間でも坐禅をすることによって、感情に揺れてしまっている自分の本来持っている穏やかな心と出会えることを白穏禅師がおっしゃっています。自分の心が穏やかであるならば、自分がそのまま極楽浄土になれるのです。

(宗禅寺 住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第五話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。

貞門派(ていもんは)
前回、俳諧の成り立ちと、それ以後の発展をお話ししましたが、その発展の基礎を築いたといえるのが「松永貞徳」を祖とする「貞門派」といえます。芭蕉の俳諧における師となります北村季吟も貞門派の一人でしたので、芭蕉の俳句の入り口は貞門派だったのでした。その特徴は「言葉あそび」といわれるもので、その芸術性には限界があるといわざるを得ないものでした。

「野ざらし紀行」
仏頂禅師との出会いで禅の道に入り、俳階に新たな表現を模索していた芭蕉に一筋の光が見えて来たところに不幸がおとずれます。住としていた芭蕉庵が焼失してしまったのです。
冬空の寒風の下、焼け出されてしまった芭蕉は強い無常観におそわれました。その後、庵は再建されたのですが、無常観は失せる事無く芭蕉の胸中に残ったのでした。

この頃、芭蕉はさかんに「笠」を題材とした句を残しています。
また笠を自ら竹をさいて作ったりもしました。「笠」を最小の「庵(いおり)」と考え、風雨から身を守る点で同じなのだから笠を携え、旅の中に身を置きたいと考える様になったのでした。

美濃(岐阜)の俳句仲間に誘われたのをきっかけに、四十一歳の芭蕉は旅に出ました。前年に母が他界し、その墓参もかねてのものでした。この旅に芭蕉は強い覚悟を持って臨みました。

野ざらしを心に風のしむ身かな
旅立ったあたり、その心境を詠んだとされる匂です。野ざらしは行倒れの人の頭骨の意です。
では芭蕉は死を覚濯してこの旅に出たのでしょうか?いや、そうでは無く、自らの俳諧を確立するという不退転の覚培を表明したのでした。放浪行脚の環境に身を置いて、自らの禅的境涯を高める、つまり悟りを得るのだという覚嬬ともいえるでしょう。

実際この「野ざらし紀行」の旅で芭蕉は「蕉風」と呼ばれる自らのスタイルを確立しました。旅の途中で除々に作風がかわっていくのですが、それはとりも直ささず、芭蕉の禅的境躍の高まりを示唆しているのです。

「物我一致」ぶつがいっち
物とは自分以外の全て、つまり対象を指します。それが我と一致する、自分と他者を分けない無分別の境程、これを芭蕉はこの旅で得たと考えられています。
無分別とは自分が無い状態、つまり無我の境地です。そこで物だけが残る、自らが物になりきる、これが「物我一致(芭蕉は一智とも表した)」の境涯です。
この境涯から見える景色を俳句として詠むことで芭蕉は俳諧というものに新たな地平をもたらしたのでした。
以下次号
(一峰 義紹)

禅寺雑記帳

◆今年もあっという間に半年が終わり、お盆となりました。先祖や亡くなられた家族が皆様の元に帰ってくるのです。家の内外を清浄にして、心も綺麗にして気持よくお迎えをいたしましょう。

◆先日テレピで拝見した歌手、俳優の加山雄三さんが心がけている「人生の三冠(カン)王」が素敵だったのでご紹介します。
○関心を持つ(そして感心する)
○感動する
○感謝する
の三つを意識して生活する、というものです。今年で八十歳になられたそうですが、見た目も若々しく、今でも精力的にコンサートを行うなど本当に素敵なお年の取り方をされています。その秘訣がこの「三冠王」なのでしょう。

加山さんは高校生の頃、お寺へ通って修行をされたともお話されていました。
三十代で事業に失敗し、二十三億円もの負績を拍問えたこともあったそうです。
しかしその修行経験から、「どん底は絶対ある。そういう事を経験して乗り越えていく為に今生の生命はあるんだ」
「最初から楽で楽しいことだけやるんだったら、この生命は与えられなかっただろう」と必死に生きるのです。
土下座をする頭を蹴られでも自分が悪いのだからと考え、「この野郎」と思ったら負けだと自分に言い聞かせて堪えたそうです。お金が無くて何も無い中、奥様が中古のピアノを買ってくれて、そのピアノで「海その愛」等の曲を作ることが出来、その印税収入や、来た仕事は選ばずに何でも受けることで見事、借金を完済するのです。
こういう経験をふまえた上での「人生の三冠王」には、本当に説得力があります。

◆今年も「羽村灯篭流し」が、八月五日(土)十八時三十分から行なわれます。場所は宮ノ下グランドです。大勢の和尚方が唱えるお施餓鬼のお経と、鎌倉流御詠歌の皆さんの奉詠の中、多摩川に灯篭を流して供養する伝統行事です。先視供養だけでなく、家内安全、交通安全、青少年の健全育成などの祈願もする素晴らしい行事です。

一年でもっとも暑い時期ですが、川を吹き渡る風は涼しく、夕焼け空と漆黒の川面に灯篭が流れていく様子は言葉にあらわせない趣きがあります。未だ参加した事の無い方は是非この素晴らしさを実感してみて下さい。

当日来られない方でも、頼んでおけば当日に故人の戒名などを書いた灯篭を流して頃くことが出来ます。一基千円です。
詳細は各菩提寺にお尋ね下さい。
なお雨天の場合翌六日になります。
(禅林恭山)

第144号 平成29年 春彼岸

慧光144号

「看却下」ー己自身を知る
一峰 小住 義紹
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺副住 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 小住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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道はちかきにあり

ブータン王国という国を皆さんご存じかと思います。インドとチベットにはさまれた山奥の小国です。農業が主要産業で、水力発電によって得た電力を輸出して外貨を稼いではいますが、世界的にみても貧しい国の一つです。この国は政策として「国民総幸福(GNH)」というものを掲げ、経済発展ではない、近代化でもない道を選びました。実際に数年前の国民アンケートでは90%以上の人が「私は幸せだ」と答えた様です。

しかしその状況が変わりつつある様です。国がさらに貧しくなってしまった訳ではなく、むしろ経済的には発展しています。少しずつですが近代化もされています。けれども実はそれが、ブータンの人々の幸福を蝕(むしば)んでいったのです。経済発展により格差が生れ、稼ぎの少い農業に若者は従事しなくなりました。かといって仕事がある訳でもなく、失業者が大幅に増えました。隣国であるインドにより近代化が進んでいますが、そこで働いているのはインドから来た労働者ばかりで入り込む余地が無いのです。さらに近代化により、多くの情報が得られる様になったために、インドとプータン、他の国とブータンの生活格差を知る事となってしまったことも多くの人々の不満をあおっています。結果、幸せを感じる人の割合は下がってきてしまいました。

「幸せ」とは何でしょうか?それは自分自身が「私は幸せだ」と思うこと、感じることに他なりません。他人に決めてもらうものではないのです。他者と比べて自分はどうか?この思いにとらわれれば欲望が生れ、その欲望はとどまる事はありません。一つの欲望を満たして得られた満足は一時的なもので、また新たな欲望が生じてしまうからです。これでは欲望の奴隷となったも同然で「幸せ」とは程遠いものとなってしまいます。

「看却下」という禅語があります。脚(あし)下(もと)を看よ-つまり自分自身をみつめ直せという言葉です。情報のあふれる今の日本では実は難しい事なのかもしれません。たまには静かな環境に身を置いて、自らに「幸せか?」と問いかけてみてはいかがでしょう。
(一峰 小住 義紹)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その7

夫れ摩訶衍(まかえん)の禅定は
称歎(しようたん)するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜(しょはらみつ)
念仏・機悔・修行等
其品多き諸善行
みなこの中に帰するなり
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

※摩訶衍(まかえん)
言語のマハlヤナを漢訳した言葉です。ここでは大乗仏教をさしています。大乗は大きな乗り物という意味で、広く一般の民衆をも仏教で救われるという考え方です。白隠禅師もまた、坐禅によって出家者のみならず、在家の皆様も救われると考えておりました。

◆意訳
「大乗仏教の心を落ち着かせる坐禅による禅定こそが何物にも変え難い最上のものである。様々な善行修行があるが、それらも禅定があればこそのものなのだ」

仏教には悟りに到達するための様々な仏行があります。ちょうどお彼岸を迎えました。お彼岸はお墓参りに行き、ご先祖様にご挨拶をするという習慣が一般的ですが、本来はお中日に先祖供養の法要を行い、残りの六日間で六つの修行徳目(布施・持戒・精進・忍辱・禅定・智慧)を修めて悟りに達しようという仏教週間です。その六つの徳目の一つにも禅定ということばが入っています。

禅定(ぜんじよう)とは?
禅定の基本は坐禅による精神集中になります。我々の目の前には日頃から常にたくさんの情報が飛び交っています。心の中は都会の雑踏のような状態ですから注意が色々な所に向いてしまいます。そうした雑多な情報をすべて遮断して一つの対象に集中させるということです。精神集中というと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、皆様も日頃から、自動車や自転車の運転、お料理やお勉強、読書など、自分の精神を集中させているはずです。その集中した精神作用を禅定というのです。

日常の生活行為や科学技術の研究・発展、スポーツや芸術などの文化活動に到るまで、人間のあらゆる行いは、そうした集中した精神作用、禅定からもたらされているものだと言えることができるでしょう。

白隠禅師は坐禅によって出家在家にかかわらず、誰しもが禅定の力を得ることができると信じておりました。

坐禅は姿勢を正して坐り、丹田(下腹)からの深い呼吸を繰り返して行うものです。ただただ、自分の呼吸のみに没頭していくのです。自分の呼吸に没頭していくと、仕事や家庭でのしがらみを離れた、本当の自分に出会えます。坐禅の素晴らしい世界を味わっていただければ有難いです。
(宗禅寺 福住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第四話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳詰(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。

貞門派(ていもんは)
前回、俳諧の成り立ちと、それ以後の発展をお話ししましたが、その発展の基礎を築いたといえるのが「松永貞徳」を祖とする「貞門派」といえます。芭蕉の俳諧における師となります北村季吟も貞門派の一人でしたので、芭蕉の俳句の入り口は貞門派だったのでした。その特徴は「言葉あそび」といわれるもので、その芸術性には限界があるといわざるを得ないものでした。

蕉風 続き
松永貞徳を祖とする「貞門派」においのちて俳階の道に入り、江戸に下って後は西山宗因率いる「談林派」の影響を強く受けてその道を遁進(まいしん)していた芭蕉でしたが表現の壁につきあたり、それ迄のものとは違う独自の表現を模索していたところ仏項禅師に出会い、その薫陶を受ける事により、新たな俳階への道がみえてきたところまでが前回のお話でした。「俳階は気先を以て無分別に作るべし」と、弟子達と丁々発止の句会を行い始めたのも、「活溌溌地(かっぱつはっち)」という言葉に代表される臨済禅の重んじる瞬発力を俳階に生かそうと考えたからかと思われます。また芭蕉は禅師に会う前から古代中国の思想家路引の書「荘子」に健倒していましたが、その理解は滑稽本ととらえてのものでしかなかったのですが、禅の薫陶を受けて後は「荘子」の持つ世界への理解が深まり、それもまた芭蕉に大きな影響を与えたのです。老子・荘子に代表される「老荘思想」の世界観は中国で生れた禅宗のバックボーン(背骨)ともいえるものですので当然ともいえるでしょう。ちなみに仏項禅師は四十一才にして弟子に寺を譲り放浪行脚(ほうろうあんぎや)の旅に出ました。この生き様もまた、芭蕉に影響を与えたかもしれません。

住としていた芭蕉庵が消失してしまいまた禅師の薫陶や「荘子」の影響で「無常観」といったものを強く感じる様になった芭蕉は頻繁に旅に出る様になります。そしてその旅先で見た事、聞いた事、体験した事、さらにそこで詠んだ俳句を紀行文として多く残しました。一番有名なのは「おくのほそ道」ですが、最初の記行文は「野ざらし紀行」となります。これは芭蕉が仏頂禅師と同じ四十一才の時に行った旅を-記したものですが、この旅において芭蕉の俳諸に一つの答えといえるものが確立されました。「蕉風(もしくは正風俳譜)」と呼ばれる事になる芭蕉独自のスタイルはそれまで隆盛を誇ってきた談林派にかわって俳詣の主流となり、またそれまで、低くみられていた俳請の地位を上げ、芸術性の高さを認められるに至りました。以下次号

・野ざらしを心に風のしむ身かな
・道のべの木槿は馬に食はれしむ
・馬に寝て残夢月遠し茶の煙

「野ざらし紀行」より
(一峰 小柱 義紹)

禅寺雑記帳

◆暑さ寒さも彼岸まで」、とは良く言ったもので、この時期になると寒さもひと段落し、ほっとします。しかし年度が変
わる時期でもあり、生活環境が大きく変化する方も多いことでしょう。また花粉症の方にとっては一年中で一番憂欝な時期の筈です。春は精神的にも肉体的にも大きく負担のかかる季節、どうか皆様の心身が健やかでありますように。

◆一万五千人以上の方が亡くなり、福島第一原発事故の起きたあの東日本大震災から丸六年となり、犠牲になられた方は七回忌を迎えました。未だに七万人以上が仮設住宅での生活を余儀なくされており、行方不明の方が二千人以上もおられるそうです。あの時から時間が止まったままという方もいらっしゃることでしょう。あらためて亡Kなられた方々の御冥福をお祈りし、被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。

◆アメリカではトランプ政権が動き出しました。あの方の言動を見ているとこの先、カッとなっていきなり核のスイッチに手を伸ばすことさえあり得る気がします。自然災害も怖いですが、これは誰にもどうしょうもないことです。しかし指導者が誤った判断で起こす人災や混乱は有って欲しくないものです。任期の四年が無事でありますように。

◆今年のNHKの大河ドラマ『おんな城主直虎』は、戦国時代、井伊家の断絶を救った女性武将、井伊直虎の生涯を描いています。(女性では無かったという説もあるそうですが。)-昨年の『真田丸』が傑作でしたので視聴率ではやや苦戦しているそうですが、劇中に登場する寺は皆、我が臨済宗の寺院ですので、是非ご覧頂きたいと思います。

◆訳あって尼僧となった主人公のいる寺は龍揮寺(りょうたんじ)、井伊家の菩提寺で、妙心寺派です。劇中、禅問答を使ったセリフも度々出てきます。今川家の人質となっている徳川家康のいる寺は臨済寺、今でも雲水が修行をしている道場があります。

◆井伊家、今川家に限らず、戦国時代の有力な武将のブレーンは、殆ど臨済宗の僧が務めています。当時の寺は、現代で
言うと士宮学校やビジネス学校のような役割も持っていました。仏教書だけでなく、『論語』や『孟子』を含む『四書五経』といわれる儒学や、有名な『孫子』を含む『武経七書』といった兵法書まで読まれていたのです。

◆当時日本で一番のエリートが臨済宗の僧でした。各地で武将を精神的に支え、また領国の経営や政治、戦術の師でもあったのです。

◆臨済宗が日本という国の在り様にこれまで大きく関わっていた事を誇りに思うと同時に、今でもそうであるように精進せねばと思う次第です。
(禅林 恭山)

第143号 平成29年 正月

慧光143号

道はちかきにあり
禅林恭山
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺副住 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 小住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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道はちかきにあり

長く謹慎させられていたある武士が、謹慎中に書物を通して禅に興味を待ちました。謹慎が解けた武士は、早速有名な禅僧の元を紡ねます。
「漢籍に『道は爾(ちか)きにあり、しかるにこれを遠きに求む』とある。ところで、『禅の道』とは如何なるものか」と問うのです。すると禅僧は何も言わずに武士.を突き飛ばし、座っていた座布団を手前にさっと引きました。パンザイのような姿で後ろへ倒れる武十を残し、禅僧は自室へ戻ってしまいます。武士は屈辱にに刀を抜こうとしますが、禅僧の弟子の修行僧がなだめ、別室で「まあお茶をどうぞ」と進めます。
武士が気を取り直して手を伸ばすと、修行僧が湯呑をぱっと倒してしまうのです。お茶は飛び散り、武士の着物はピシヨピシヨです。武士は、
「師匠が師匠なら、弟子も弟子だ。ともに成敗してくれよう」と激怒します。その時、弟子が、
「こういう時、貴殿の承知しておられる『道』ではどのようにふるまいますか」と尋ねるのです。 激昂のあまり武士は一言も答えられません。すると修行僧は、
「わが『禅の道』ではこのようにいたします。」といって、袂から手拭いを出して丁寧に武士の着物を拭きはじめたのです。
ここで武士はハッと我にかえり、あらためて禅僧に教えを乞い、ついには居士として修行を完成することになるのです。
この武士は第二次伊藤博文内閣の外務大臣をを務めた陸奥宗光の父で、紀州藩士の伊達千広という方、禅僧は越渓守謙(えっけいしゅけん)、妙心寺僧堂を開いた方です。

まさかと思っていたトランプ大統領が誕生し、イギリスがEU離脱を表明、韓国では大統領を弾劾する大規模デモ、世界中が不安定でこの先どうなるかと、なんとも不安にかられます。しかし世界がどうであれ、自分がしっかりしていればいいのです。国の前の一つ一つの事に、しっかり向き合っていきましょう。道はいつでも足元にあるのです.
(禅林恭山)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その6

闇路(やみじ)に闇路(やみじ)を踏み添えていつか生死(しょうじ)を離(はな)るべき
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

◆意訳
「長い長い真っ暗闇の迷いの道を歩んでこそ、いつかは迷い苦しみの闇から抜けだせるのです」

生死を離れる
前回は六道が空想的なものではなく、今を生きている我々の心の中にあるものだというお話しでした。我々の心は常に悩みや迷いを抱えているものです。
仏教においては生死、つまり生きることと死ぬことは迷いを表わす典型的な言葉として用いられます。その迷いの中身は生きることは良いことで死ぬことは不幸なことという二元的な物の見方です。自分の好きな上司と嫌いな上司。自分の好きな仕事と嫌いな仕事。理想の自分と今の自分。人生では同級生や身近な人を自分と比較してしまい、気落ちすることもあったりするのではないでしょうか。

不自然(ふしぜん)不思悪(ふしあく)
ふしぜんふしあく。善く思わず、悪く思わずという言葉があります。良いことや得したと思ったことが起こってもそれを良いことだと受け止めず、また、嫌なことや損したことがあってもそれを悪いことだと受け止めないという言葉です。

さようならという日本語
さようならという日本の挨拶があります。一般的には普段は「失礼致します」とか、「ありがとうございました」とか「お世話になりました」という言葉を使ってお別れをすることが多いと思います。仲の良い友人であれば「じゃあ、またね」で済ますこともあるでしょう。
さようならという言葉は重大なお別れの時に使われることが多いと思います。
さようならの元の言葉は「然様ならば、左様ならば」。
つまり、「そうであるならは」という言葉です。もっと言うと「そうならなければならないのであれば」ということでしょうか。お別れは時に寂しく、悲しく、嫌なことではありますが、そのお別れに対して背を向けてしまうのではなく、別れなければならない事実を真正面から受け止めている言楽に聞こえます。

生死を離れるということも同じことではないでしょうか。目の前の自分の悩みや迷いを必要以上に悪く受け止めずに、前向きな気持ちで迷いや悩みに向き合い、時にそこへ自ら飛び込んでいくことが大事なのではないでしょうか。
向き合うからこそ、納得できるのではないかと、白隠さんがおっしゃっているように思えるのです。
(宗禅寺 福住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第三話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人たちを紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖(はいせい)」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。

貞門派(ていもんは)
前回、俳諧の成り立ちと、それ以後の発展をお話ししましたが、その発展の基礎を築いたといえるのが「松永貞徳」を祖とする「貞門派」といえます。芭蕉の俳諧における師となります北村季吟も貞門派の一人でしたので、芭蕉の俳句の入り口は貞門派だったのでした。その特徴は「言葉あそび」といわれるもので、その芸術性には限界があるといわざるを得ないものでした。

談林派(だんりんは)
貞門派の俳諧から離れ、その世界をさらに大きく発展させたのが「西山宗因」を祖とする「談林派」でした。宗因は言葉遊戯を主とする貞門派の古風を嫌ってきまり事を簡略化し、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特徴とする作風を完成させました。これにより俳諧の持つ世界観が拡がり、活発性も与えられて同時に芸術的可能性を大きく高めました。
多くの支持を集める事となった談林派は貞門派に替って俳諧の主流派となりました。江戸に出てきて間もない頃の芭蕉が西山宗因に会い、大きな影響を受け、後、作風も談林派風になります。後に芭蕉は「上に宗因なくんば、我々の俳諧今以(いまもっ)て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし、宗因はこの道の中興開山なり」と述べています。

薫風
西山宗因を中心とした談林派の影響のもと、俳諧の道を歩んでいた芭蕉でしたが、次第に談林派の持つ軽薄性に表現的限界を感じるようになります。そんな時に転居先の深川で、仏項(ぶっちょう)禅師という高僧と運命的な出会いをします。
茨城鹿島の根本寺(こんぽんじ)の住職であった仏項禅師は、たまたま訴訟事のために深川に逗留していたのでした。
その人柄に感銘を受けた芭蕉は禅師のもとに参禅を重ねました。二年足らずの交流でしたが、その熱心さと禅機(禅的素質)が認められ「ひとり開禅の法師」と呼んでもらえるまでになりました。「ひとりでも悟りの境地に到達できる人」といった意味でしょうか。その影響は明らかで、以後作風も変化を見せます。
芭蕉庵(芭蕉の住)で行われる句会で門人達と丁々発止のやりとりで作句が行われる様になりました。「俳諧は気先(きせん)を以て無分別に作るべし」と芭蕉は弟子たちに教えています。これは臨済禅の特徴である瞬発力の影響と思われます。
以下次号
(一峰 小柱 義紹)

禅寺雑記帳

◆年が明けました。年々、一年の経つのが加速度的に早くなっていくように感じます。明けたばかりの2017年ですが、ぼやぼやしているとあっという間に終わってしまうのは明白、「今年はこういう年にしよう」「今年はこれに力を入れて過ごしていこう」など、しっかり計画を立てて臨みたいものです。良い年にいたしましょう。

◆昨年は私たち臨済宗の祖、臨済禅師が亡くなられて1150年、また江戸時代に臨済宗を立て直した白隠禅師の250年の節目ということで、一年を通して様々な法要や行事、展示が開催されました。参加、ご協力頂きました皆様、本当にありがとうございました。

◆上野の国立博物館で開催された「禅ーこころをかたちに」展は質も量も素晴らしく、まさに50年に一度の臨済宗の集大成といえるものでした。お釈迦様からの2500年、臨済禅師からの1150年、日本に臨済宗が伝えられてからの800年、白隠禅師からの250年が連綿と繋がって今の日本の様々な文化、私たち日本人の暮らしがあることを理解できる展示でした。次の1200年の節目の時も今のように平和な日本であって欲しいものです。
その責任は今を生きる私たちにあります。

◆昨年放送されたNHKの大河ドラマ「真田丸」が大好きでした。最近の大河ドラマは途中で嫌になって見るのをやめてしまう事が多かったのですが、この作品は家族揃って一年間見続ける事が出来ました。お陰様で、あらためて歴史に興味を持つようになりました。

◆中世、羽村は青梅の勝沼城を拠点とした三田一族が治めていたのですが、戦国時代に条氏によって滅ぼされ、北条の家臣の大石氏が支配していました。羽村小学校のそばには大石遠江守(とおとうみのかみ)の館があったといわれる遠江坂(とおとうみざか)があります。

◆その北条氏も、豊臣秀吉の小田原攻めで滅ぼされるのですが、その戦いの際に八王子城を攻撃したのが、前田利家、上杉景勝、そしてあの真田昌幸(草刈正雄が演じた信繁の父)でした。この戦いにはきっと、羽村の人間も沢山参加したのではないでしょうか。この後、徳川家康が江戸に入り、人口が飛躍的に増える為、玉川上水が作られ、その要の地、羽村は徳川の領地になるのです。玉川上水の維持管理の為、羽村には毎年、幕府から莫大なお金がもたらされたそうです。

◆先にも述べた臨済宗中興の祖、白隠禅師には厳しい師匠がいました。道鏡慧端(どうきょうえたん)一般的には正授(しょうじゅ)老人として知られる方です。その指導がなければ白隠は生まれなかったのですが、その道鏡慧端の父は、真田信之(大泉洋が演じた信繁の兄)です。

◆歴史は決して他人事ではなく、全て繋がって今があるのですね。
(禅林 恭山)

第142号 平成28年 秋分号

慧光142号

公とは「世のため人のため」
禅福 泰文
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる
宗禅寺副住 高井和正
禅と共に歩んだ先人
一峰 小住 義紹
禅寺雑記帳
禅林 恭山

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公とは「世のため人のため

日本中がオリンピックの熱狂に覆われる少し前、天皇陛下が生前退位のご意向を国民に示されました。その又少し前、公的資金の私的流用を疑われた都知事が退職し、新しい都知事が選ばれました。この二つの出来事は、われわれに「公」と「私」という問題を考えさせる、良いきっかけとなりました。
まず、天皇陛下が「お言葉」を述べられたおかげで、陛下は何と厖大な量のお仕事をされているのか、ということをわれわれ国民は知らされました。そして、その仕事の中味は「民の安寧と国の平安を祈る」ことに尽きる、と知らされました。つまり、天皇陛下は日夜「世のため人のため」に、その幸せを祈って下さっている、ということです。自分の幸せを折るのではなく、他人の幸せを祈るということを公の仕事としている人は、天皇陛下以外には誰もいないでしょう。天皇という立場に「私」は存在しないのです。何と貴く重い立場であることか。
翻って、前都知事の公私混同については、多くの批判が繰り広げられました。これは個人の資質ということもありますが、究極的には公を忘れ私を利するという、凡俗の精神の為せる業であると言えます。しかし、他人を批判する前に、自分が同じ立場に立ったとしたら、果たして同じことはしない、誘惑や欲望には負けないと言い切れるのか、本当は考えてみる必要があるのです。凡人であるわれわれは、実は誰でも同じ誤ちを犯す可能性がある、と考えた方が良いのです。
「人の振り見てわが振り直せ」と昔の人は一言いました。天皇陛下に倣う、などというのはおこがましいことですが、今こそわれわれ日本人は、戦後失われた公の精神、「世のため人のために尽くす」という生き方を取り戻さなければならないのではないでしょうか。
それは「自分のみ可愛い」という偏狭な心凡夫の心から、広大な慈悲の心仏の心への転換でもあります。若い人にそのきざしがあります。希望があります。
(禅福 泰文)

白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その5

六趣輪廻(ろくしゅりんね)の因縁は己が愚痴の闇路(やみじ)なり
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)

◆意訳
私達の心は常に地獄・餓鬼・畜生・修羅・天上・人間という六つの迷いの世界を行ったり来たりしている。いつも迷いの世界にいるのは、境遇や環境のせいではなく、自らの心の愚かさにあるのだ。

六趣輪廻とは
仏教の下地になっている基本的な考えに輪廻があります。元々は仏教誕生以前からインドに存在していたバラモン教(ヒンドゥー教の原型)の考え方で、仏教の生まれたインドの基本的思想ともいえるものです。輪廻転生ともいい、「流れること、転位すること」を意味しており、命あるものの生死の繰り返しが未来永劫続いていくという意味の言葉です。
六趣とは、その繰り返しが六つの世界にまたがって続いていくということです。

◆地獄界
絶え間ない苦しみが続く世界

◆餓鬼(がき)界
いくらあっても、「まだ足りない」と思う、ガツガツとした貧りの世界

◆畜生界
自分のことをコントロールできずに、欲望に負けてしまう世界

◆修羅界
周囲と強調しない、激しい争いの世界。
修羅場という言葉の元

◆人間界
恨みや妬みのある世界

◆天上界
極楽の世界であるが、その極楽は長続きしない世界

今生きている我々からすれば、六道は死後の世界ということになるのかもしれません。昔から悪いことをした人は地獄に堕ちると考えられていました。他ならぬ白隠禅師自身も幼少の時、近所のお寺で見た地獄絵図に恐れ戦き、地獄へ行きたくがないために仏道を志すのです。しかしながら、地獄や六道は本当に死後の世界にあるものなのでしょうか?
かつて、とある武士が白隠禅師に地獄と極楽の存在問うた時、自穏禅師は相手の武士をわざと罵倒し挑発しました。堪忍袋の緒が切れた武士は、禅師に対し刀を抜いて切りかかりました。そこで禅師は「そこが地獄である」とおっしゃりました。禅師がおっしゃりたかったのは、人を刀で切りつけるという恐ろしい心を誰もがもっているということです。六道は外にあるものではなく、自分の心にあるものなのです。我々はすでに六道にどっぷり浸かっているのです。
「六道の辻に迷うぞ憐れなり身は極楽の真中に居て」
(宗禅寺 福住職 高井和正)

禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第二話

臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣皆で進めていこうというこの項ですが、今回より江戸時代前期に生き、日本の俳諧(はいかい)(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」を取り上げたいと思います。

紀行文
前回にお話しした様に芭蕉は多くの紀行文(旅行しながら、その土地の事を記したもの) を残しています。代表的なものは皆様もご存じの「おくのほそ道」ですが、その他にも「野ざらし紀行」「更科紀行」などがあります。仏頂禅師からの薫陶や愛着ある自らの庵の消失などで「無常観」を深く植えつけられたためだといわれていますが、その芭蕉の持つ「無常観」は有名な「おくのほそ道」の序文「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」にもあらわれています。
ほとんどが徒歩であった当時の旅行ですから、これだけの紀行文を残すという事は大変なことで、その後半生の多くを旅行していたといえます。51才で亡くなったのも旅先の大坂(現在の大阪)でのことでした。

俳諧――芭蕉以前・以後
さて先ほど芭蕉は俳諧を芸術的域にまで高め大成させた――と記しましたが、そもそも俳諧とはどの様にして生れ、発展してきたのでしょう。
「俳諧」には、「滑稽」「戯れ」「機知」「諧謔」等の意味があります。室町時代に盛んであった和歌のうち、表現を滑稽・洒脱にして、より気軽に楽しめるようにした文芸が「俳諧の連歌」と呼ばれて一般に広く浸透していきました。
当初は連歌の傍流という立場でしたが、次第に愛好者を増やし、一定の地位を築くに至ります。連歌は先ず誰かが発句(五・七・五の部分)を作り、他の者がそれに句を付けていくという作法となりますが、発句のみで完結させるという表現が出て来て、これが現代に通じる「俳句」の元となりました。

江戸時代となり、世に太平が訪れると俳諧は一層盛んになりますが、それまで遊戯的であった俳諧に「わび・さび」といったものを取り入れようとする流行がおきました。短歌には古くから「わび・さび」の概念はあったのですが、俳諧独自の「わび・さび」の表現を追求するようになっていきました。
芭蕉はそこに一つの答えを導き出し、俳諧を大成させたといわれています。もともと遊びであった「俳諧」を芸術的域にまで高めた芭蕉は何をしたのでしょうか?
以下次号
(一峰 小柱 義紹)

禅寺雑記帳

◆南米大陸初のリオデジャネイロのオリンピック、色々問題が多く開催自体が心配されましたが、無事に終わりました。
日本は過去最多の41個ものメダルを獲得、逆転での勝利も多く、本当に興奮し勇気や感動を与えられました。次はいよいよ東京オリンピック、楽しみです!

◆臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念の「鎌倉大坐禅会」が10月29日(土)30日(日)に建長寺と円覚寺にて行われます。老師さまの提唱(講義)と坐禅でニ時開程、事前に申し込みが必要です。食事のついた回もあります。各寺に申し込み用紙がありますが、ネットから直接申し込む事も可能です。応募締め切りが9月30日迄ですが、定員に達した回から締め切りとなりますのでお早めに、次の機会は50年後ですよ。

◆もう一つ遠諱の関連企画・『禅―心をかたちに』展が10月18日から11月27日まで、上野の東京国立博物館にて開催されます。日本の文化、精神性、私たちの普段の生活にも多大な影響を与えて来た臨済宗の貴重な資料が、大徳寺や南禅寺など全十五派の全面的な協力で一同に会します。事前申し込みが必要ですが記念講演や尺八イベント、建長寺派に
よる「四ツ頭茶札」などの特別な催しのある日もあるので、興味のある方は菩提寺に尋ねるか、ネットで検索してご参加下さい。これも貴重な機会です。是非!
(禅林 恭山)